福祉施設SX
第17回 介護作文・フォトコンテスト結果発表!〜みんなが想って、考えて、笑顔になる〜
第17回の介護作文・フォトコンテストは、 そのテーマのとおり、レンズを通して、文字に載せて、 一心に伝えたいと願う大切な人への想いが、溢れんばかりに集まりました。
どれも力作ばかりで選評をお願いしたプロフェッショナルの方々も うれしい悲鳴をあげることとなりました。
こんなにやさしい笑顔を私たちに与えてくれる皆さまに心から感謝申し上げます。
外部審査員 カメラマン・介護福祉士 山田 真由美さん
フォトコンテストには介護の現場の温かい瞬間や絆を捉えた写真が多数寄せられました。最優秀賞作品は、利用者と介護士の優しい交流を写し、温もりを感じさせます。優秀賞作品は、高齢者の笑顔や安心感、看取りの際に虹がかかった感動的な瞬間を映し出したものです。入選作品は、家族や地域とのふれあい、介護を通じた喜びが伝わる素晴らしいものばかりです。どの作品も介護の尊さや笑顔の大切さを改めて教えてくれました。
広報委員会 担当副会長 小泉立志
それは、一瞬のことだった。父と目と目が合った、ほんの僅かな時間。けれども、きっと私は一生忘れないだろうと思った。
今、父の介護をしている。二十三年前に他界した母に続き、二度目だ。父が多系統萎縮症という難病の告知を受けたのは、三年前。有難いことに七十歳を過ぎても同僚に引き留められる形で働いていたが、歩行の際にふらつくことが増えた。調べてみると、この病気が原因と判り、退職することになった。
丈夫な体は、父の自慢の一つだった。大柄で骨太、若い頃はスポーツ万能だったらしい。病院のお世話になるのは健診と高血圧の事くらいだった。
社交的で動くことが好きだった父は、自転車に乗ることをやめた。車の免許を返納し、杖を使い始めた。兄や私は心配したが、本人たっての希望で独り暮らしを続け、近所に住む友人たちと毎日のように会って楽しい生活を送っていた。
だが、告知から一年も経たないうちに転倒し、入院。下顎や胸部の骨折で、帰宅まで半年もかかってしまった。退院後はシニアカーで外出するようになった。不釣り合いだった立派な体格は、どんどん似合うようになっていった。
近頃は外出の頻度もめっきり減り、居間の定位置でほぼ一日中テレビを見て過ごしている。リハビリを兼ねて、洗濯や炊事はなんとかこなしているものの、できないことが少しずつ増えている。
七年闘病した母の時と比べると、介護の負担はまだ軽い。けれども、先のことを思うと心は重くなる。あの長く辛い道の上に、また私は連れてこられてしまった、と。
憂鬱な気持ちを閉じ込め、いつも通りに接する。こう言っては何だが、父は心の機微に疎い。悪気はないのだが、自分本位なのだ。それで、病床の母によく怒られていた。ただ黙ってその時間をやり過ごしていた父は、母の必死の訴えをどう感じていたのだろうか。
だから、未だ父に関して私はよく分からない部分がある。真面目に働き続け、家族を養ってくれたことは愛情の証なのだと思う。けれども、心と心が通い合うという実感にどこか欠けている。そのことが、私の心の片隅を淡く翳らせていた気がする。
だが、唐突にそれは照らされた。手伝いを終え、子どもたちの他愛ない話をしている時だった。ふと父の顔をみると、私を見守るようにみつめていた。それは、あたたかく慈しむような眼差しだった。一言も発していないのに、広く深い愛がそこにあると一目で解ってしまうような。
ずるい。もっと早くみせてくれたら良かったのに。不器用もほどほどにしてほしい。
あとどれくらいの時間が父と共有できるのかは分からない。けれど、こんな瞬間にまた出逢えるのなら、今度の道のりもどうにかまた歩き通せそうだ。
「今、久美子さんの呼吸が止まりました。」
早朝、母が10年間お世話になった施設からの電話。その落ち着いた声と穏やかな言い回しが心に柔らかく響く。93歳での大往生だ。すぐに施設へ駆けつけ母の顔を見てはっとした。それは認知症の母ではなく、私が子供の頃の凛とした母の顔。私は思わず頬ずりをして甘えてしまった。
お葬式はささやかに、戒名も位牌もお経も無い。本当に親しい人数名と、たくさんのお花と音楽、それ以上何が必要だろうかと実感できる想い出深いお式となった。斎場での最後のお別れの時、私は「これからの30年(母の年齢まで)、私はまだまだこの世でたっぷり楽しませていただきます!」と母に宣言。皆の和やかな笑い声に包まれた。
数日後、施設から毛布の忘れ物があると電話がきた。 私が出向くと若い女性介護士さんが紙袋を持って1階へ降りてきてくれた。お礼を言い紙袋を受け取り帰ろうとすると、その介護士さんはゆったりと優しい笑顔で私を見ていてくれている。こちらが何か言うのを待ってくれているように感じた。
そうだ、喋りたいこと、聞いてもらいたいことがたくさんある。施設での母との想い出、感謝の気持ち、今の心境。でも介護士さんも忙しいだろうからと手短にお話しをした。そして帰ろうとするとまたニコニコと待ってくれている。そうだ、お話ししたいことはキリなくある。そんなことを2、3度繰り返し、介護士さんと別れた。
もうここに来ることもないだろう。それでもまだ母がここにいるような、名残惜しいような気持ちとともに、私は門のところで振り返り、施設の建物に向かって少し長いお辞儀をした。
人に寄り添うということ、それは特別に何かをすることではないのかもしれない。「呼吸が止まりました」という穏やかな言葉で伝えてくださった施設の方、そして私が何か話すのをゆっくりと待ってくれた介護士さん。身内ではなくとも式場で最後までずっと一緒にいてくれた知人達。
母の介護への後悔の想い、自責の念、心の痛み、私はたくさん抱えているけれど、それらを忘れず花の蕾と思って大切に持ち続ければ、いつかきっと花開き、未来へと上昇するエネルギーとなるだろう。そんなふうに思えるようになったのも、私にそっと寄り添ってくださったまわりの方々のおかげ、感謝の想いが溢れてくる。
「介護福祉士になろう」と決めた十三歳。
ボランティア活動をして、どこの専門学校へ行くか決めた高校時代。高校卒業の前に祖父が倒れた。意識はなく、寝たきりになった祖父へ私は何もできなかった。すごく悔しい思いで「絶対に立派な介護福祉士になる」と決めた。そして専門学校に入学してすぐ、祖父は亡くなった。
専門学校では同じ夢へ向かう仲間に恵まれ大変ながらも楽しく勉強して無事、介護福祉士となった。卒業して約二十年。一緒に学んだ仲間には今でも助けられている。
介護職として働き始め、理想と現実の違いに、もがきながらも、たくさんの仲間と利用者さんに出会い、いろいろな事を学ばせてもらった。
私には大好きな祖母がいる。自分より人を想い、悪口を言わず笑顔で明るい最高のばぁちゃんだ。社会人になってからは、一人で遊びに行くようになった。夜勤明けで、お昼ご飯を買って「ばぁちゃん、一緒に食べよう。」と行くと「はいよ。仕事終わりだったのか。」といつも嬉しそうに笑う。ご飯を食べ、昼寝をして。お茶を飲みながらお喋りをする。一緒に過ごす時間が好きだった。そんなばぁちゃんも少しずつ認知症が出始めた。
ある日「ばぁちゃん」と呼んでも返事をしなくなった。「チヨさん。」名前で呼んでみた。「はい。」その日から私は「ばぁちゃん」から「チヨさん」と呼び方を変えた。少し寂しさもあったけどチヨさんになってから、楽しいこともあった。デイサービスに持っていく衣類をいろんな所にしまってしまうため、一緒に整理をすることにした。すると、宝探しのように五百円玉や千円札がでてきた。チヨさんは「手伝ってくれた小遣いだ。しまった物を忘れてもこうやって見つかったは。」と笑ってお小遣いをくれた。数年後、自宅での生活が困難となり施設入所となった。ある年の年末、母が「相談がある。チヨさんを外泊させたい。ミキサー食、オムツ交換。大変でも、看てあげられるの最後かもしれない。」母の思いに「うん。良いと思う。協力する。後悔しないようにお母さんのしたいようにすれば良い。」と答えた。私も介護職につき十五年は経ち、やっと家族の役に立てる時が来た。笑顔でお喋りだったチヨさんは、体は小さく無口で寝たきり状態。オムツ交換をしていた時だった。母が「私がやると、痛いって言うのに、あんたがやると静かだね。不思議。」と言った。私は笑って「一応プロですから。」と答えた。十五年の経験がチヨさんの介護へ活かせた。
コロナ対応で、面会や接触が難しくなった。
祖父へできなかった事。その思いが今でもあるから学びへと繋がっているのだと思う。
私にとって介護とは「解らない。」。解らないから楽しい。一人ひとりの利用者さんで答えは違うし、答えを出すために学びたいし、大変だけど、それ以上に楽しい。私は介護の仕事が好きだから立派な介護福祉士になる。
「何度も同じことを言うな!」
父は祖母に向かって声を荒げる。
楽しいはずの食卓は一気にピリつく。
祖母は96歳。
何度も同じことを言ってもおかしくない当然の年齢だ。父は理解できていないのだろうか。いや、できているだろうけど、いつまでたっても母は母。強くて元気で動き回れる人と思っているんだ。実際、私も40代になるが、母はいつまでも元気なんだと思っているところがある。
祖母はこの年齢で杖もつかず一人で歩いているし、お風呂もトイレも一人でできる。大好きな食べ物もモリモリ食べている。
立派だ。
なんて幸せな人生なんだろうと思う。
あんな頑なに嫌がっていたデイサービスも今は楽しみな日課らしく、いつも玄関先で待っているほどだ。
そんな祖母が父にきついことをいわれて、しょんぼりした姿を見ているのが可哀そうで辛い。 ある時、また同じことを言う祖母。
父が大きな声を出す前に私は、「この話、前にも教えてくれたね。何回も聞かせてくれて嬉しいわぁ。ありがとう。」と、とびっきりの笑顔で祖母に言った。祖母も笑顔になる。父はもうなにも言えない。私は父に対してしてやったぞと心の中で叫んだ。普段だったらピリつくはずの食卓もいつもと変わらず平和で楽しい時間になった。
年を重ねれば誰でもなりうること。父も母も、そして私も。同じことを何度も言うくらいかわいいもんじゃないか。
ずっと一緒に暮らしてきた家族。孫たちも大好きな優しくて明るいおばあちゃん。あたたかい気持ちで見守ってあげたい。共に歩み寄り敬い助け合う精神でこれからも支えていきたい。
「おいしいね」と母が嬉しそうに言う。大好きな鰻を大きく口を開けて、パクパク食べる。無邪気な笑顔。「美味しいね」と私も笑顔で答える。今日の鰻は鹿児島産と話すが母は鰻を食べたこともすぐに忘れる。だからこそ、この「美味しい瞬間」を大事にしたい。
母の背骨の圧迫骨折から始まった介護。私は母と二人暮らしだったので、お互いに決め事をした。私は仕事をあきらめずに続ける。母は自分の家で死ぬ。今思えば、これから始まる十三年にわたる介護の苦難や葛藤を知らないから、最初に決めることができた。ケアマネジャーの「できる限りの助けを借りる」という助言と方針も幸運な出会いだった。
介護認定から5年目位から、母の認知症が進行した。それまでも物忘れや何かができなくなることはあったが、ヘルパーさん・デイサービス・ショートステイ・訪問看護をフル活用しながら、何とか切り抜けた。しかし、過去へのタイムスリップ、幻覚幻聴に昼夜逆転が加わると、私のこころが追いついていかなかった。「どうして」「なんで」と行き場のない思いが溜まっていく。母の誕生日。お祝いに母の好きな鰻を昼食に用意した。特大の鰻をペロリと食べて「美味しい」の連発。日頃の介護の疲れも癒される。だが、その日の夕食時に「お昼の鰻は美味しかったね」と言うと、母の返事は「忘れた」でした。何かプツンと私の中で切れた。「忘れるなら、ご飯だけ食べて」「もう嫌だ。馬鹿みたい」「忘れたって、うんざり」と叫んでいました。驚いた様子の母は「覚えていない。ごめんね。」と謝りました。その悲しそうな顔に、鰻を食べた時の笑顔が重なりました。私は、わあわあ大声で泣きました。まるで駄々をこねる子供のように、大声で泣いたのです。ひとしきり泣いて、ふと顔を上げると、母が「鰻が食べたいね」と無邪気に言います。「えっ、今、鰻って言ったの」私は一瞬、ぽかんとしました。すると今度はなぜかおかしくて、おかしくて笑ってしまいました。私が子供のころ泣くと、母は「今、泣いた烏がもう笑う」と言ってお菓子をくれたのを思い出しました。母がきょとんとした目で、笑っている私を見ています。怒ったり、泣いたり、笑ったりと目まぐるしい。私は今、笑っています。この出来事は私に今を大事にすることを教えてくれました。「泣いた烏がもう笑う」変わる、というより、あるがまま受け入れるでしょうか。
それ以来、私は「泣いた烏がもう笑う」を呪文にしています。仕事でもよく唱えます。必ずしも物事が好転するとか、苛立ちや怒りがなくなるわけではありません。鰻のような騒動は日常で次々に起こります。だけれど、今を受け入れることで、気持ちが軽くなります。数年後、母は自宅で眠るようになくなり、私は今も仕事を続けています。
母が介護を通じて教えてくれた最後のお守りです。「泣いた烏がもう笑う」
「お盆に混ぜご飯を作るから、食べにおいでね。」
七月下旬、祖母から一本の電話があった。私の祖母は脳梗塞の後遺症があり、利き手に力を入れることが難しい。そんな祖母からの誘いが、とても嬉しかった。祖母の手料理を食べるのは五年ぶりだった。
祖母の家に着くと、すでに混ぜご飯の良い香りがしていた。その香りが、幼い頃に親戚みんなで囲んだ食卓の情景と結びつき、自然と懐かしい気持ちになった。祖母が懸命に介護をしていた祖父も、香りに誘われ帰ってきてくれたに違いないと思った。
祖母は、だし巻き玉子の準備を始めると、「右手が利かないから、卵を割ってくれる?」と私にお願いした。
今でも祖母が卵を割れることを知っていた私は、祖母を隣で見守ることにした。祖母の持っている力が発揮されることが、祖母の笑顔が増えることに繋がると思ったからだ。
私は、祖母と会う度に、祖母の身体と心の変化を同時に感じるようになった。今まで当たり前のようにできたことが難しくなり、祖母の笑顔は減っていた。時折見せる悲しそうな表情に、「何かしてあげたい」と思うようになっていた。
祖母は、卵を三つ、殻が混ざることなく綺麗に割ることができた。
「みんなすぐ食べちゃうから、もう一本作ろうか」 と、嬉しそうに話す祖母の横顔を見て、思わず私の口元が緩んだ。
徐々に表情が明るくなった祖母は、両手を動かしながら調理のコツを教えてくれた。その様子は母にそっくりで、「私のお母さんのお母さん」であることを改めて実感した。
年に数回しか会えないが、祖母には笑顔で過ごして欲しいと考えている。しかし、私と祖母のペースを比べた時に、私には祖母の動作を「待つ」時間が発生するようになった。
「時間がかかるから」と手伝いたくなるのは、待つことが自分にとって不都合な場合だ。次にやりたいことが頭に浮かぶと、祖母のペースにもどかしさを感じてしまう。
しかし、慣れない左手で慎重に卵を巻く祖母を見ていた時間は、そんな気持ちが吹っ切れるほど穏やかで、あっという間に過ぎた。
「この感覚は忘れない」と心に誓った。
祖母の要介護状態を予防するためには、祖母の動作を「待つ」必要がある。その時間は年々伸びてしまうのかもしれない。「待ちたいけど待てない」という葛藤が生じた時に、祖母の笑顔を優先できるような心の余裕を持っていたい。一人では、持ち続けることが難しい「余裕」を周りの人と支え合いながら作っていきたい。
今も昔も変わらない、祖母の味を守るために。
「いらっしゃい。ようこそおこしくださいました。」
そう言って笑顔で迎えてくれたことをよく覚えている。私は、小学六年生の時、地域のある介護施設に訪問したことがある。高齢者の方に歌のプレゼントを贈ったり、一緒に折り紙を折ったり、じゃんけんやしりとりなどのゲームを行ったりした。「楽しんでもらえてよかった」「笑顔になってくれて嬉しい」それが当時の私の気持ちだった。しかし、成長しテレビやインターネットを通じていろいろな情報を見聞きするようになった私は「介護」に対するイメージが変わっていた。介護疲れという言葉があるように介護は大変だ。介護する人は自分の自由な時間が少なくなってかわいそう。介護に対するマイナスな考えがどんどん増していた。そんな時、介護施設を訪れた時のことを思い出した。私は自分の言葉が相手に伝わらなかったり、言った通りに行動してもらえなかったりすると少しイライラした。しかし、介護士の方の中に嫌な顔をする人はひとりもいなかった。施設内は笑顔や生き生きとした顔であふれていた。きっと、介護士と高齢者の方の間に素敵な関係性が築かれていたからだろう。
私には、もうすぐ七十歳を迎える祖母がいる。「みいちゃん、みいちゃん」と私のことを呼んでくれる声が大好きだ。私が「長生きしてな。」と言うと「そうやな。最近、物忘れがひどい。もう年やな。」と微笑むばあちゃん。私には、四歳上の姉がいる。たしかに勘違いしたり名前を呼び間違えたりすることが増えた気がする。もし、認知症になったらと考えるだけで落ち着かない。しかし、こんなところで立ち止まっている暇はない。まだ、介護経験のない私に介護の本当の苦労を理解することはできない。しかし、そんな私だからこそ、今のうちからできることはたくさんあるのではないだろうか。私はまず、有限である「時間」を大切にしようと考えた。一緒に出かけるとまた一つ思い出が増えたと喜ぶばあちゃん。私が旅先で荷物を持ったり、階段で手や肩を貸すと少し暗い顔をしてお礼を言う。また、すぐに疲れてしまうのだとどこか申し訳なさそうな顔をする。なんだか私たちの間に見えない厚い壁があるようだ。全然迷惑じゃない。私がそうしたいからやっているだけなのに。
「介護」はマイナスなイメージが強かったけど向き合い方次第で大きく変わると感じた。相手のせいで自分が何かをしてあげているのではない。自分がそうしたくてやっている。そして、それを言動で示すことに意味がある。そうするといつのまにか壁も打ち破られるから。たとえ、言葉が伝わらなくなっても心は通いあっていると信じている。最後まで誠意を持って行動すると誓う。人は、世話をかけ合い、支え合う生き物でしょう。だから、明日も明後日も何気ない会話で大笑いする合田家でいようね、ばあちゃん。
「ああ、気持ちいいわ。ごめんね。」
認知症の祖母の体をふくと必ず言う。「いいよ」と僕は祖母に言葉を返すたびに、心の中で謝らなくていいのに、と思いながらも、僕が面倒くさいなと思いながらしているのがバレているのかなとドキリとする。
祖母は、認知症になる前は自分が創業した会社を五十年間経営する経営者だった。忙しく働く祖母の姿を今もおぼろげに覚えている。僕をいろんな所に連れて行ってもくれた。しかし、約八年前仕事を引退した後、祖母の様子は急激に変化した。話がかみ合わない。急に怒り出す。物がなくなる。ふさぎ込む。家族はその祖母の変化が認知症の症状だとすぐに気付けなかった。そのために、祖母と家族の関係はとても悪くなってしまった。ある日、台所でボヤ騒ぎが起こり、祖母が認知症であることが判明した。
先日、祖母の部屋を片付けた母がたくさんの祖母の手帳を見つけた。そこには十年以上前から「頭の中がバラバラになっているよう」「言いたい気持ちが言えない」「また家族と言い合いになってしまった」など、祖母の心の中の思いがいたるページに書き込まれていた。それを見た母は「お母さん、わかってたんやね。苦しかったんやね。」とつぶやいた。僕は胸の奥がギューッと締めつけられるような気持ちになった。今まで認知症になった人は、もういろんなことを忘れて、わからなくなるから、感情も無くなるのだと思っていた。だから祖母も、ただ命がある限り生きているだけだと。しかし、僕のそんな思いは、全く間違っていたと知らされた。
祖母は現在八十五歳。祖母の人生・・・今まで考えたこともなかった八十五年という時間が僕に向かってきた。子どもの頃は戦争中で、結婚して母たちを産み育て、自分で会社を創って働いて、と僕は祖母の人生を思いつく限り言葉にして並べてみた。するとそこに、祖母の嬉しかったことや、悲しかったことや苦しかったことが、浮かびあがってくるような気がした。僕には決して想像できないような思いがびっしり書き込まれた人生。それが祖母の人生で、そこに僕の毎日も重なっていると感じた。祖母が、もしいなかったら確実に僕は存在しない。だから、祖母の命に僕の命はつながっているのだ。
それから、これまで大変だとしか思えなかった介護を通しての祖母と触れ合う時間が変わった。あと何年祖母の人生のページが残っているのかはわからないが、今祖母の人生と僕の人生は重なり合って進んでいる。その確かな事実が少しでも楽しいものでありたい、と思うようになった。「ごめんね」という言葉にぼくは「いいよ」ではなく「ありがとう」と返したい。祖母は今僕の命が、祖母の命だけでなく僕につながるすべての命の中で生かされていることを教えてくれている。祖母の手帳にあった「祈嗣、今日も元気いっぱい!」の文字が僕に力をくれるから。
外部審査員 作家・エッセイスト 岸本 葉子さん
介護作文・エッセイ部門に素晴らしい作品をたくさんご応募いただきました。皆さまに心より感謝申し上げます。最優秀賞・入選賞に選ばれた作文はもちろんのこと、惜しくも選に漏れたすべての作品にも生きた言葉と豊かな感情表現で、「介護」の本質と魅力が余すところなく表現されています。それは読む私たちに「ケア」の原点にある人間的な姿を、温もりをもって教えてくれる極上の教科書でもあります。
広報委員会 委員長 塩澤達俊
外部審査員 作家・エッセイスト 岸本 葉子さん
いずれの手紙も世代と時空を超えた深い家族のつながりと、介護場面における双方向の関係性が短い文章の中で見事に紡ぎ出されていました。共に過ごされた時間から生まれた絆、感謝、そして深い愛情といった豊かな想いが介護する人とされる人のそれぞれの「今まで」と「今」と「これから」を表しているような情景を心に思い浮かべることができます。作品を通じて、介護を改めて見つめなおすきっかけを提供いただき、感謝申し上げます。
広報委員会 副委員長 正田貴之
外部審査員 コピーライター 勝浦 雅彦さん
介護に関わる方々への「感謝」、介護の「やりがい」「しあわせ」というテーマに対して介護する側、される側それぞれに寄り添った素晴らしい作品が多く、審査員も大変悩みました。優秀賞の二作品には優しさが溢れていました。最優秀賞には人生を前向きに捉えながら、いただいた「いのち」に対する肯定感や介護する側への感謝の気持ちがみてとれました。受賞作を通して介護の魅力・素晴らしさが多くの方々に届けられたら幸いです。
広報委員会 幹事 瀧義道
写真、作文、手紙、キャッチフレーズ、似顔絵といった多様な表現を通して、どの作品からも、高齢者と向き合う中で生まれる喜びや葛藤、感謝の気持ちなどが深く伝わり、心を揺さぶられました。受賞作品はもちろん、すべての応募作品とこのコンテストの存在が介護への理解と関心を深める役割を果たすとともに、介護現場で働く方々、高齢者の方々、そのご家族への励みとなり、よりよい未来の礎になることを願っています。
審査委員長 北本佳子