最新制度解説

特集(制度関連)

第16回介護作文・フォトコンテスト結果発表!! 〜笑顔が増える、幸せも増える〜②

2024.03 老施協 MONTHLY

第16回を迎えた介護作文・フォトコンテスト。コロナ禍前の生活に戻りつつある現在、福祉介護施設においてもおじいちゃん、おばあちゃんと「会う」「話す」機会はさらに増えていく。会って話すことで、おじいちゃん、おばあちゃんの笑顔を増やして、もっと幸せを感じてほしい、そんな思いを込めたテーマは、「笑顔が増える、幸せも増える」。4部門の応募総数は4712作品となった。手紙部門の特別審査員にはタレントの井上咲楽氏を起用。学生からも多くの応募があった。


作文・エッセイ部門

一般部門

最優秀賞
与え、与えられるもの

岡山県 及川志貴さん

 私は現在五二歳の主婦である。四五歳の時に、若年性パーキンソン病を患って以来、少しずつ後退を繰り返して生きてきた。発病当初は、薬さえ飲めば、健常者と何の違いのない生活ができていたので、仕事も普通に行っていた。しかし、次第に手足の振戦、身体の拘縮、体幹の揺れといった症状が現れだし、今は、一桁の足し算もできないといった脳への影響も出てきたため、仕事は辞めざるを得なくなった。

 私の家から車で五分程度のところに、小さなデイサービスができたのがその頃である。

 仕事を辞めて、引きこもりになっていた私の状況を見るに見かねて、友人が見学に行こうと誘ってくれた。定員二五人というこじんまりとした空間、リハビリに特化した現代型のスタイル、そして、笑顔のいいスタッフが揃っていた。ここなら通えそうかなと思い、翌週から私は、利用者の一人になることを決めた。

 私は、健常者だったころ、三十年近く、福祉の相談員をひたすらにしてきた。人を支えることに四半世紀を費やしてきた自分が、人に支えられることになる。最初は、気恥ずかしさがあったが、スタッフの方々の配慮で、そういった思いも消え、いつしか私はデイサービスに通うのが待ち遠しいと思えるようになった。

 私が、利用者になって、四か月目のある日、軽度の認知症のあるFさんが来られた。何度通ってきても、「私はここを初めて利用しますんじゃ」と繰り返し、今したメニューも、次の瞬間には忘れてしまうといった彼女であったが、性格は明るくいつも笑っていた。彼女は私と同じ曜日に、週二回通ってきている。そのうち、片方の日は、利用者が多く活気がある。反対の日は、利用者が五名程度で、皆静かだと感じ取られたようだ。明るくにぎやかなことが好きな彼女は、人数の少ない日に「寂しい、寂しい」と泣き出してしまった。咄嗟のこと、私は「Fさーん」と勢いよく、彼女を抱きしめていた。あったかく包み込むように。それから、私は身を離し「まだ、寂しい?」と尋ねると、Fさんは「もう、寂しくない」と笑った。

 人と人とのつながりというのは、不思議なもので、自分が普段支えられる側であっても、ふとした瞬間に私でも誰かを支える側に回ることができる。また、Fさんの笑顔は素敵だ。彼女はそこにいるだけで、多くの人を和ませる、支え手になっている。これぞ、本当の平等(ノーマライゼーション)だと感じるのだ。

 私にとっての介護とは与え与えられるもの。

 私の病気は進行性なので、これからも、私は日々変わっていくことと思う。しかし、こころだけは、どんなに辛いときであっても、生きているだけでそれが他者への何らかのプラスの影響になることと信じていつつ、前向きに生きていきたい。

学生部門

最優秀賞
笑顔が呼んだ幸せの時間

山梨県 小池さん

「ひなたはどこだ?」「ひなたはどうした?」それがひいおばあちゃんの口癖でした。

 私の名前はひなたなので、家族から「ひな」と呼ばれています。ひいおばあちゃんもまた、私を赤ちゃんの頃から「ひな」と呼び、かわいがってくれました。心配性で、少し口うるさかったひいおばあちゃんは、祖母や母と喧嘩をしていたけれど、九十五歳を過ぎても二階に洗濯物を干しに行くくらい元気で、喧嘩も元気の秘訣だったのかもしれません。

 そんな元気なひいおばあちゃんでしたが、だんだん物忘れが激しくなり会話がかみ合わなくなっていきました。それから一年も経たないうちに、ほとんどの時間を布団の中で過ごすようになり、まるで小さな子供のように、お風呂が嫌、ご飯が嫌とごねるようになりました。そんな我が家に毎日のように響くのは「我儘言わないで!」、「いい加減にして!」という祖母と母の怒声。地獄のような時間でした。しかし、そんな状態のひいおばあちゃんを家でお世話する大変さや、イライラする大人達の気持ちは私にもよくわかりました。

 家の空気は常に重く、ギスギス。しかし、そんな空気が一掃される時間がありました。それは、ひいおばあちゃんが私とお話をしている時間でした。私がおばあちゃんの部屋を訪ねると、毎度毎度「どこの娘だよ?」と言われました。ひいおばあちゃんの中の「ひな」はずっと小さな頃の私だったのでしょう。けれど「ひなだよ」と言うと、ひいおばあちゃんは「ああ、ひなか」と、とても嬉しそうな笑顔になりました。会話は、同じ昔話の繰り返し。かと思えば、急に口うるさく小言を言いだしたりと、ジェットコースターのようでした。けれど、おばあちゃんはそれを大真面目に、そしてとても嬉しそうに話すものだから、私は思わず笑ってしまいました。その様子を見ていた祖母や母もつられて笑い出し、それが嬉しかったのか、ひいおばあちゃんはいつも以上にニコニコになりました。笑顔が笑顔を呼んでくれたそんな時間が、私はとても好きでした。

 ひいおばあちゃんは私が中一の時、百歳で旅立ちました。私の胸に残ったのは、もっとたくさんお話する時間を作ればよかったという後悔、けれど、そんな私に、母は言ってくれました。「ひなが作ってくれたあの時間に本当に救われていたよ。ありがとう」と。その言葉に、嬉しさと寂しさが入り混じった感情が生まれ、涙が止まりませんでした。当時の私は、子供の私にできる事なんて何もないと思っていました。けれど、介護には子供も大人も関係ないのかもしれません。

 介護はするのもされるのも大変です。けれど、地獄のような時間の中でも、笑顔は笑顔を呼んで、私たちに幸せな時間をくれました。笑顔は本当に偉大です。それを経験させてくれたひいおばあちゃんに、私は感謝しています。今日も空の上で、ひいおばあちゃんが笑顔でいてくれたらいいな。そう思う毎日です。

学生部門

奨励賞
美味しいものが食べれますように。

岡山県 松本さん

「もう帰りなさい。」病院独特の匂いが漂う中、絶食で痩せ細り寝たきりの祖母は私と母にこう言った。決してもういて欲しくない、早く帰って欲しい、そんな意味ではなかった。昔から人に迷惑をかけることが嫌いな祖母。「私のことなんかいいから」が口癖な祖母。上手く言葉を発することすら困難な口で言ったその一言は祖母の優しさだった。祖母の持病が悪化し、施設や病院で暮らすようになった頃、母は祖母を介護するようになった。コロナで面会も厳しい中、数十分間だけの限られた面会に行き、私たち兄弟の話や写真を見せ続けてくれた。施設では洗濯が行えないため家から着替えを持っていくのと引き換えに着た服を持って帰る。常に家との往復を繰り返していた。そんな生活をしている中、美味しいものを食べるのが大好きで、よく一緒に美味しいトンカツを食べに連れて行ってくれた祖母は美味しいものが食べたいと訴えていた。母はこっそり食べさせてあげようかと思いながらも、預かってもらい祖母の病気に合った食事を与えてもらっている以上、勝手なことは出来ないと「これが治ったらね、あれがよくなったらね」と言い聞かせ、食べさせてあげたい気持ちを無理やり封印していた。しかし病気はそんな二人の気持ちなんかお構いなしに祖母から食べられるものを次々に奪っていき、初めは手の痺れから始まったものの、年月が流れ医師から「最終ステージです」と告げられた時には絶食状態で、あとは最期を待つだけという状況下に置かれていた。祖母はもう既に大好きだった抹茶のアイスは食べられなくなっていた。四月四日の明け方、祖母は息を引き取った。桜の季節だった。私は小さい頃、毎年春に祖母とお花見をするのが恒例で、そこに売っているエビフライを桜の木の下で食べるのがお決まりのコースだった。しかしそんな祖母はもういない。母はずっと約束していた抹茶のアイスを食べさせてあげられなかったことを悔やんでいた。葬式の日が決まった。母は通夜と葬式の二日間はそのまま葬儀屋に泊まることになっており、私達は一度家に帰り、合流することになった。葬式の日の朝、私は車の中で保冷バックを抱えていた。約束の抹茶のアイス。祖母に食べさせてあげたい気持ちに加え、母の願いを叶えてあげたい気持ちが大きかった。葬儀会場に着き、私達家族と祖母しかいない空間でそっと棺桶の蓋を開け、祖母の唇に抹茶のアイスを付けた。もちろん祖母は食べられないし表情一つ変わらないのは当たり前だが、何だか幸せそうな感じがした。それから数週間経ち、私と母は祖母の家の片付けに行った。部屋の壁には母の幼少期の写真や、私達兄弟が書いた手紙や沢山の絵、年賀状が丁寧に飾られていた。そんな中、母が飾ったであろう祖母の七夕の作品が飾られていた。“美味しいものが食べれますように。”ちゃんとお願い事叶ったね、おばあちゃん。

学生部門

奨励賞
幸せな時間

熊本県 古江さん

「ありがとうねえ」

 105歳だった曾祖母は、よくこの言葉を言っていた。看護師さんやヘルパーさんがお世話をしてくれた時、母が生けたお花を見せた時、僕が折り紙を折ってあげた時。曾祖母の「ありがとう」は誰に対しても優しく、みんなの心をおだやかにしてくれた。

 数年前から、曾祖母は施設で暮らしていた。始めはみんな心配していたが、優しい施設のみなさんに囲まれ、楽しく過ごせているようで安心した。コロナで面会ができなくなった時は、窓越しで元気な姿を見せてくれていた。

 昨年の7月、施設のほうから、そろそろお家へ帰ったほうがいいかもしれないと提案された。前から、曾祖母の最期は自宅でというのが家族の願いだった。自宅に帰ってくるにあたって、曾祖母の娘たちである僕の父の叔母たち四人が、一緒に住んで介護することになった。介護と聞いて、食事やトイレやお風呂など身の回りのこと、急に具合が悪くなったときのことなど、不安や大変そうなイメージしかなかった。

 もうそんなに長くないのかな、と心配していたが、家に帰ってきた曾祖母は、大好きなおそばやウナギを「おいしいねえ、おいしいねえ」と言いながらもりもり食べて、みんなを驚かせた。一日二回訪問看護師さんが来て健康観察をしたり、身体をきれいに拭いてくれたりした。かかりつけの病院の先生とも連携して、往診に来てくれた。先生や看護師さんが来たときはいつも嬉しそうに手を握って「ありがとう」と言っていた。曾祖母の言葉にみんな笑顔になった。

 ある日、見なれない大きな車がきた。移動入浴車というものだった。介護用の浴そうを家の部屋で組み立ててお湯をため、寝たままお風呂に入れてくれるサービスだ。お風呂に入れることが難しくなった曾祖母のために、叔母たちが頼んだのだった。久しぶりのお風呂はとても気持ちよさそうだった。ちょうど夏休みだったので、僕も買い物を手伝ったりした。レトルトの介護食という便利な物が売ってあることも初めて知った。かまずに食べられる肉じゃがをおいしそうに食べていた。

 覚悟してむかえた自宅介護も4か月をすぎようとしていた。叔母たちも疲れがたまっていたに違いなかった。だけど、「こんな風にお母さんや姉妹みんなと一緒に過ごす時間があって、とっても幸せ」と言っていた。幸せという言葉が心に響いた。

 このまま年越ししちゃうかもねーと話していた十二月の始め、家族みんなに見守られて曾祖母は静かに亡くなった。一緒に晩ごはんを食べたこと、いつもジュースをくれたことお庭の花がきれいだと喜んでいたこと、いつもみんなのことを心配してくれていたこと、みんなに幸せな時間をくれたこと。「ありがとうね。おばあちゃん。」

学生部門

奨励賞
介護をもっと身近に

熊本県 紫垣さん

「介護」と聞いて一般的に頭に思い浮かぶのは、専門の資格をもった人が高齢者の日常を豊かにするためにしている仕事だ。食事の世話や着替え、入浴や排泄等の介助、福祉施設や病院でのレクリエーション、また、同居高齢者家族の身の回りの世話を思い浮かべる。そう考えると現在、高齢者と同居していない中学生の私は、専門の知識もないため、介護で役に立てる気持ちがしない。とはいうものの何もできないというのも、もどかしく思い、電話で日常から会話している、他県に住む九十五才の曾祖母に、「私ができる介護ってあるかな?」と率直にたずねてみた。すると意外な返事が返ってきた。

「あなたは、介護していますよ、ばあばの脳ミソの介護をね。冗談抜きで、あなたが生まれたことで、私の健康寿命が十年以上延びています。小学校入学までみられたらいいなと生まれた時は思っていたのに、今では欲が出て大学卒業まで見届ける予定ですよ。頭も若返っていますよ。携帯電話も始めたしね。」

 そういって嬉しそうに電話の向こうで笑っていた。確かに、曾祖母は気持ちが若い。時々話していて九十五才ということを忘れている。一人暮らしの曾祖母は、今年から携帯電話を使い始めた。通っているデイサービスで、他の高齢者の使い方を盗み見して、自分にもできそうな気がしたそうだ。使い方がわからない時は、家の電話から孫の母か、ひ孫の私に連絡してきて操作方法を確認してくる。数日の帰省時も、わからないことを直接会って聞く準備をしている。学ぶ意欲がとても強い。曾祖母とは、時々、電話や手紙で近況報告している。最近の話題だけではなく、曾祖母の十代の頃の話や亡くなった曾祖父との出会いについても聞いたことがある。冗談を交えながらの楽しい女子トークだ。そんなコミュニケーションをすることが、脳ミソの介護だと曾祖母は、言うのだ。自分が介護している自覚なんてなかったため、そう言われて、介護が意外と簡単に身近にできるものだと分かった。

 市内に住む八十代の祖父母と会う時、ボードゲームやトランプをよくしている。久しぶりに会うと、ルールの記憶が曖昧になっているが、皆で思い出しながら間違えても一緒に笑って楽しんでいる。これも曾祖母と同様に「心の介護」になるのではないかと思った。そして、それは高齢者側だけではなく、私にとっても、日常の中にある高齢者との時間を共有するという関わり方は、世代が違う家族と楽しく寄り添う気持ちを育ててくれ、同世代では学べない知恵を与えてくれている。

 高齢者の母親の介護のことを、介護とはあえて言わず「恩返し」とラジオで表現する芸人さんがいた。そう捉えると介護は、より身近になると感じた。

学生部門

奨励賞
尊厳を守るということ

兵庫県 清水さん

 施設ボランティアや実習で、高齢の方と接する機会が増えました。認知症の方と接する際に、幼い子供の様に感じてしまった事があります。

 身体的な不自由はないのに、食事を食べさせてほしいと言われたり、体を寄せて来られたり手をつないでこられる事も多く、そんな瞬間にまるで子供の様に見えてしまっていました。

 その時の自分はまだ未熟で、そんな方々に対して、「可愛い」などと思っていました。

 福祉科に入学し実習の中で、利用者の方の、昔の写真とその方の経歴を見る機会がありました。今は、人形を抱きニコニコと常に笑顔で私と手をつないで歩いておられたその方が、とても凛とした表情で教壇に立っておられる姿でした。髪をきつく一つに結って厳格な雰囲気で、今のその方から想像の出来なかった姿にとても驚き、またショックでした。

 そして私は、ハッとしたと同時に自分の心の在り方を大きく反省しました。

 認知症になり、自分で出来ることも少なくなってしまったその方にも、他の多くの高齢の方にも、それぞれの生きてこられた人生があります。多くの経験をしてこられた大先輩です。それを頭では理解していたつもりでいたのに、実際に写真を見た事で大きく刺さった気がしました。

 自分の両親や祖父母が、認知症になってしまい施設にお世話になる日が来たとして、その時にまるで子供の様に扱われている姿を見たら、どんな気持ちになるだろう。もしも自分がその立場になった時にその様な扱いをされたら。と考えるとどんどん悲しく感じました。

 高校で福祉について学ぶ中で「尊厳」という言葉をよく目にします。

 一人の人間として尊重されている状態の事をいいます。その人の人格を尊重しその方らしく生きる事を大切にするべき。という事です。利用者本人さんはもちろん、ご家族にとってもそれはとても大きな事だと思います。

 認知症の方は、まだ何も知らず経験のない赤ちゃんや子供と違い、病気などの症状により能力が低下しているだけなのです。

 私はもっともっと、福祉、医療や心理についても学び、体験する事で目の前のその方の見え方にとらわれずに、もっと広い角度から見られる様になりたいと思いました。


受賞作は…

ここでご紹介した作品を含む受賞作については、全国老施協のホームページの「第16回介護作文・フォトコンテスト」内の「結果発表」をご覧ください。本誌に掲載し切れなかった作品も掲載しています。作文・エッセイ部門の受賞作にも力作がそろっています。
それぞれのタイトルと作品紹介をあわせてご覧いただくと、また格別。思わず笑ってしまうもの、ジーンとしてしまうもの、ニヤリとしてしまうもの。味わい深い作品ばかりです。


構成=早坂美佐緒(東京コア)