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結果発表! 第18回 介護作文・ フォトコンテスト 〜見つけた、介護の魅力、喜び〜 PART.02 作文・ エッセイ部門(一般部門)


[ 一般部門 ]総評コメント
「思い出が心を満たす」が僅差で最優秀賞に輝きました。おめでとうございます。センテンスが短く、歯切れの良い文章のなかに、力強く迷いのないメッセージが貫かれています。特に「きつい言葉は『私の苦しみを知って』という切ない叫びだった」という洞察は、認知症ケアの本質を突いており深く心に響きます。 次点の2作品も、介護の現場に宿る希望や学びが隅々までつづられた、甲乙つけがたい力作でした。
広報員会 担当副会長 田中 雅英
思い出が心を満たす 京都府 奥村 さん
もう、七十八才。この歳になると失うものが増えてくる。長年連れ添った夫は七年前に他界、娘も忙しくてあまり帰ってこない。
体にもガタがきた。去年の八月、散歩中に転倒して右手首を骨折、今年も転けて前歯が八本折れた。座骨神経痛で腰や足が痛い。
以前は人付き合いが面倒だったが今は違う。誰かと話したい、食事がしたい、一緒に買物に行きたい、と人のぬくもりを求めている。
ひとり暮らしは心細い。いつまで自立した生活ができるのか。見えない先行きに悩む私の頭に、ふと、彼女の姿が浮かんできた。
それは二十数年前、ホームヘルパーをしていた頃だ。訪問先の利用者さんに知らないことを教えてもらったり、オムツ交換をすると「気持ちがよくなったよ」と笑顔で喜んでくれたりなど、やりがいのある仕事だった。
だが、ひとりだけ苦手な人がいた。当時、七十代の女性だ。彼女はリウマチを患っていたが、息子さんとの同居を頑固に拒む気丈な人だった。ヘルパーの私に対する風当たりも強く、対応に四苦八苦したので忘れられない。
ある日、訪問時間の三時直前に用事が入り、ギリギリ到着。時計を見ると三時だったので、「ぴったりですね」と言ったら「十分前にきて準備するもんや」と私を睨みつける。
黙りこんでいる彼女を明るくしたくて声をかけていたら、後で事務所に「奥村さんはペラペラ喋ってうるさい」と苦情が入った。
食卓を拭き終えると「コップやメガネの位置がずれている。元にもどして」と注意されたこともある。文句ばかり言う彼女にムカついて、素っ気ない態度をしたこともあったな。
でも、今なら彼女の気持ちがよく分かる。訪問時間を守るより、一分でも早くきて欲しいと私を待っていてくれたのだ。
体調が悪い時は長く話しかけられると辛い。リウマチで関節が強張っている手は、食卓に置く場所が少しでも遠いと掴めない。
きつい言葉を放ったのも「私の苦しみを知って」という切ない心の叫びだったんだ。
ああ、どうして体が思うように動かせないもどかしさに気がつかなかったのか。どんなことも穏やかに受け入れたらよかったのに、顔をしかめていた自分を深く反省した。
こうして彼女といろいろあった思い出に浸っていると、同じ年代になった私はあれもこれもと共感できる。一日中ひとりで寂しかったんだ。誰かに本音を言いたかっただろうな。
それでも彼女は全身の痛みに耐え、息子に頼ることもなく自分の力で毎日を過ごしていた。そんな彼女の強さが今の私を支えている。弱い心に励ましの光を差し込んでくれたおかげで、生きる勇気が湧いてきた。
振り返れば、人生の先輩である利用者さんたちから大切なことをいっぱい学んできた。ヘルパーの仕事をさせてもらって本当によかったな、としみじみ思うこのごろだ。
介護とひとすじの光 熊本県 柴田 さん
「ゆうこ、ゆうこは大好きな人の名前」
この言葉は今でも私の心をあたたかくする。平成十四年十二月二十七日、享年九十五才ばあちゃんは旅立った。
私はばあちゃん子。商売をしていた両親の代わりに、ばあちゃんが育ててくれた様なものだ。プライドの高いばあちゃんは、いつもツンとした顔で髪を結い、着物を着て、田舎者とは付き合いませんといった顔で、周囲とはあまり馴染まない性格でした。母にも厳しく頑固。母も苦労した事でしょう。そんなばあちゃんが唯一甘いのは、孫である私に対してだけ。厳しく頑固。それはばあちゃんの一面に過ぎず、豊かな愛情を持つ強く優しい人。どんな私も、まるごと受け入れてくれた。毎日の日課であった夕方の散歩は、ばあちゃんの好きな蘇州夜曲を一緒に口ずさんだ。
君がむねに、だかれて聞くわ、夢の船唄鳥の歌ー。今も夕やけを見るたびに思い出す宝物のような日々。
そんな私も大人になり、結婚、出産を経験し、母となった。長男を生んだ事で、「宝だね、宝を産んだね。よくやった」と心から喜んでくれた。
しかしその頃、ばあちゃんには認知症の症状が出始めていた。私は実家を出ていたけれど、毎日ばあちゃんの元へと通った。「ばあちゃん、おはよう」「早いねぇ、お茶飲む?」そんな何気ない会話を一つ一つ心に留めた。これから変わっていくであろう、ばあちゃんを、まるごと受け入れる為に、一瞬一瞬を大切にしようと。月日と共にばあちゃんの症状も進んでいった。食事、排せつ、入浴、日々当たり前に出来た事が徐々に理解できなくなっていく。身近な人、とりわけ家族の介護は本当に忍耐が必要だった。変わりゆくばあちゃんを前に、悲しく、辛く、時には苛立ちさえ覚えた。ばあちゃんが子供になる時、私は母となり、震える背中を抱きしめた。プライドの高いばあちゃんになる時、私は孫になる。そんな日々を繰り返しながら、すっかり私の事を忘れた頃、感染症により熱を出したばあちゃんが入院する事になった。日毎弱っていくばあちゃん。食事も摂れなくなり眠る時間が多くなった。そんなある日、いつもの様に面会へ向かう日の空は、私の心を写す様に分厚い雲が太陽を隠していた。眠るばあちゃんに「ばあちゃん、ゆうこだよ」とそっと声をかけた。その瞬間、窓からやわらかな光がさし、ばあちゃんの顔を優しく照らした。静かに目を開き、「ゆうこ、ゆうこは大好きな人の名前」そう言って微えんだ。「そうですか、大好きな人の名前ですか」涙がとめどなく溢れ、ひとすじの光に照らされたばあちゃんの頬を私は優しくなでた。人の心の奥深く、魂で優しさや愛情を覚えているのだと感じた。感謝ばかりの日々でした。奇跡をありがとう。あの曲を口ずさみ空を見上げる。
介護が教えてくれたこと 埼玉県 深田 観 さん
父の病気が発覚したあの日、三十二歳にもなるというのに私は大声で泣きじゃくった。突然の知らせに戸惑い、頭の中がまっ白になった。父はいつも笑顔で家族を支えてくれていたのに、その笑顔がもう見られなくなるのかと想像しただけで、涙が止まらなかった。心の中では不安と悲しみが入り混じり、ただただシクシクと泣き続けた。
しかし、そんな私を見て姉は静かにこう言った。「お母さんの時みたいに突然亡くなるよりもさ、こうやって一緒に過ごせる時間があるだけでも幸せじゃない?」その言葉は、私の心に深く響いた。私は幼い頃突如として母を亡くしていた。そして、ああしてやれば、こうしてやればよかったと深く後悔した事を思い出した。だから今度は、父と一緒に過ごせる今この瞬間を大切にしたいと思った。その思いから私は父の介護を好意的に取り組むようにした。
しかし介護は決して楽なものではなかった。抗ガン剤で冷たい物が触れなくなった。代わりに私が父の手となった。足腰が弱り一人で立てなくなった。姉と交替で車イスを押した。同時にお風呂に入れなくなった。介護職を十年経験した姉が入れてあげて、私が身体を丁寧に洗った。身体の自由がきかなくなるにつれ、私達にもできることは限られていった。父も自分でできないことが増えたもどかしさにイライラが募ったのか、たった一度だけ「だからそうじゃなかろうが!」と怒鳴ったことがある。私がごめんなさいと謝ると父は何かに気づいたようにはっとして、自室に籠っては一人で反省しているようだった。私は父の気持ちが痛いほど伝わって胸が締め付けられる思いだった。だから私は少しでも父が平穏に過ごせるように、毎日たわいもない話をした。天気や幼い頃の思い出や大好きな物など、介護をする中で些細なことでも父と共有することが私にとっての幸せになった。
それから三カ月、父が亡くなった時、不思議と悲しみは感じなかった。父と向き合って精一杯できることはやれたおかげだと思う。その代わりに“お父さん、今までよく頑張ってくれたね”と私達姉妹は父を讃え“最期まで一生懸命生きてくれてありがとう”と父に深く感謝した。
この経験を通じて気づいたことがある。介護は決して苦しいだけのものではなく、そこに幸せや絆もあるということだ。父の介護をきっかけに私達家族はお互いを思いやり、絆を深めることができたと思う。たとえ最期が悲しい別れであったとしても、その過程で得た思い出は何物にも代えがたい宝物だと感じている。父の笑顔は、今もなお私達の心の中で輝き続けている。
ケアマネ、二児の母、 それから時々娘。青森県 こだま さん
介護歴十二年、去年ケアマネージャーとなり、私生活では二児の母親。時々実家に行っては娘となる。それが私だ。
四年前、おしゃべりが大好きだった母が癌で倒れた。しっかり意思疎通が出来て交わした言葉は「自分の子どもを一番に考えるんだよ」だった。その時私は妊娠していた。手術を終えた母はしばらくすると鬱病になった。包丁を自身に突き刺そうとしたり、漂白剤を飲もうとしたこと。おぼつかない足取りのはずが、急に一人で家を飛び出そうとしたこともあった。兄弟や母の姪など、夜は泊まり込みで見守った。出産を控えていた私の代わりに夫が行ってくれた。そんな私も、妊娠中に一度だけ受診に付き添ったことがあった。介護に慣れていなかった父が、車椅子から車に移動させようとした際、半身麻痺の母が転倒しかけたため、私が抱き上げようとすると、「駄目!止めて!!」と悲鳴をあげたのだ。お腹の子に何かあってはいけないと、私の助けを拒絶した。身体が衰え、言葉が話せなくなっても、孫のことをよく見ており、少しでも危険な動きをすると、指をさして教えてくれた。どんな状況でも、母は母だった。
母の役に立ちたいと、産後一生懸命勉強し、ケアマネージャーになることが出来た。しかし、仕事と子育てで手一杯で、実家に行くことはなかなか出来なかった。たまに行ってはトイレ、入浴、食事介助。トイレは狭く、介護出来るような設備は整っていなかった。普段の状態を見れていないため、仕事の介護よりも難しく感じ、毎回手探り状態だった。そんな中で、毎日母の傍で介護してくれた、父と姉には感謝。
今年の一月、突然癌治療が打ち切りとなった。涙が止まらなかった。その場で話を聞いていた母は理解しているのか。泣いている私をどう思っているのだろう。そう考えるとますます涙が止まらなかった。
そこからはあっという間だった。でも長い時間で何とも言い難い時間だった。息を引きとる前日には、膨れ上がった母のパンパンの温かい手を握りながら、座ったまま眠りについた。子どもがいない夜だったから、久し振りに娘に戻れた気がした。母が息を引きとって、こんな世界があるのかと信じられなかった。母の思い出を振り返る度に涙はあふれ、毎日自分の子どもに心配された。お通夜の後、「ばぁば、美味しいものありがとう。そう言って笑ってたよ。僕にはそう見えたよ。お母さんには見えないの?ありがとうって言ってるよ」そう言われた。その言葉で、いつまでもこうしてはいられないと思った。子どもを一番に考えると、母と約束をしたから。
ケアマネージャー、二児の母親、時々お母さんの娘。どの私も、お母さんがつくってくれた私だ。
お母さん、産んでくれてありがとう。
これからも、お願いね 東京都 畝本 さん
「自分のことは自分で。親の元気は一番の子ども孝行なのよ」娘に良く言われる。夫の大動脈かい離の術後は老夫婦でなんとか暮らしている。ケンカもするが、互いに介護したりされたりである。
野菜を育てるのは二人とも大好き。今、畑仕事は二人で半人前になった。この春も楽しみに待っていた。 が、夫は急変した。足が腫れて歩けない。ゾウの足のようにパンパンに。表情は暗く、食欲はない。私の介護では手におえない。私も暗い谷間に落ちていきそうだ。
近くに居る長女に言おうかと迷っていた。なぜか、夕方、娘はウルトラマンのように、突然現れた。夫を見るなり顔色一つ変えず、「まあ、足が腫れたのね。平気、平気よ」軟膏を塗って足をさすっている。次の日、医療用のくつ下をはかせた。杖も用意した。 「いい。今までできたことができないのはあたり前なの。今できることを楽しみな」
娘は仕事の合間にケアマネさんと相談していた。すぐに、訪問マッサージを受けることになった。一番に喜んだのは夫である。
次の大学病院への付添いは娘になった。私は留守番でのんびりと。娘は帰るなり、一言、「婆さん、覚悟する時がきたよ」 前回、私への説明と同じで投薬治療で、主治医は再手術をにごした。
そうしていると、次のウルトラマンが来た。次女は看護士、訪問治療にする。月二回、医師の巡回を受け、大学病院と連携して、通院はなし。年一度の精密検査のみ。安心できる。
その後、長女は仕事帰りに寄る。親子で会話が続く。娘は夫の気持ちや考えてることを一つずつ聞いては方向づけを助ける。
「どっちがいいかな。再手術もありよ」
「でも、前のようにいかないかも。体力が」
「病院での退屈はシンドイ」
「そう、嫌だね。爺さん、入院は嫌いよね。このままでも大好きなカラオケ教室にも、友達との食事会にも行けるよ」
「うん。大丈夫だよ。まかして、行くよ」
隣りで孫娘が爺さんも夜遊びするのと笑う。
どうも、私の介護の仕方と違うようだ。娘達は延命第一より、最後まで寝たきりにならず、一日を楽しくすごして欲しいようだ。介護するほうも笑って生きている親をサポートしたいとのこと、なるほどと思う。
願わくば、私も夫もそれにこしたことない。自分の最後ぐらいは自分でと思ってきたが、もうそうはいかない。二人のウルトラマンに助けてもらっている。孫娘達もよく、食事に誘ってくれる。憘しいの一言、美味しい。
足の腫れも少しだが良くなり、夫は庭先で日曜大工らしきものを楽しそうに作っている。私は古着のリフォームをしては喜んでいる。
一日がとても早い。一年はもっと早い。一生はどうかな。早いかな。
『悪性脳腫瘍』妻に告げられた突然の病名。この日から三年間「覚悟」の日々でした。雪かきで突然右手に衝撃が走り、倒れた末の診断でした。折しも「コロナ禍」真只中、手術はおろか入院さえもままならない時期のこと。幸運なことに手術も入院も可能なこととなり先ずはひと安心。この時のことを詩作が趣味の妻は、『突然の病気見つかり驚きぬ、こんな時期手術できる幸せ』と書いている。これが妻の最後の文となった。
術後、右手足・記憶・目・言語等に後遺症が残ることがあらかじめ聞かされていたが「生きる」を最優先し手術を選択。私は残り少ないであろう妻の人生を二人で過ごそうと、妻の退院に合わせて勤めを辞めた。併せて自宅を障がい者用に改修した。
退院と同時に車椅子と介護用ベッド等との生活が始まった。初めのうちは手足の不自由だけで済んだが、次第に色々な困難が増えてきた。悪いことにそれまで長い間介護してきた父(妻の義父)が亡くなり、それが妻へ「うつ病」をもたらし、二ケ月程は精神状態が不安定な日が続いた。「うつ病」の危険な時期が過ぎると穏やかな時間が流れた。一緒に車椅子で散歩したり、ドライブしたり、買い物をしたりと、やさしい日常が増えてきた。
車椅子での生活になってからは、炊事・洗濯・掃除等々家事一切は私の日常となったが、毎日妻と二人で過ごせることは、不思議と『ひと時の幸せ』でもあった。月に数度の病院通いも苦痛ではなかった。さすがに入浴は難しいので、ディサービスも数回利用することにした。妻も行事等楽しんでいたようだ。次第に後遺症も重くなっていった。同時に介護の内容も難しくなる。訪問看護も利用したが、自宅での介護が主で、手足の自由も次第にきつくなり、トイレや排泄、衣服の着替え、洗願歯磨き、食事も全介助が必要となってきた。更に言葉も声も出せなくなり、意思の疎通ができにくくなっていった。それでも介護ができていることの幸せを感じながら妻と一緒に過ごしている私がいた。
妻にとって最後となった今年の正月は子供たちの家族と一緒の賑やかな日となった。その一週間後急に食事が困難になり、更に一週間後全く食事ができなくなり、看護ケア病棟へ緊急入院。一ケ月入院後、「点滴」と「痰取り」が頻繁に必要な状態では自宅での介護は無理と判断し、緩和ケアの施設へ入所させた。施設への入所は、妻が自分でできた最後の意思表示(目の瞬きと頷き)であった。家族への負担を少しでも減らしたかったのだろう。一ケ月程の利用の末、妻は還らぬ人となった。最後は意識もほとんどなかったが、妻は最後まで身内や家族に見守られ「幸せ」だったに違いない。 『介護』する人、される人。お互い最大の信頼関係で結ばれていたと信じているが、「もっとできることがあったのでは」と今も後悔の念は残る。『もう少し介護したかった』


