マネジメント最前線

日本全国注目施設探訪

第15回 長崎県大村市 社会福祉法人樹陽会 養護老人ホーム 湧泉荘

2023.06 老施協 MONTHLY

独自の取り組みでキラリと光る各地の高齢者福祉施設へおじゃまします!
※「第1回全国老人福祉施設大会・研究会議〜JSフェスティバル in 栃木〜」入賞施設を取材しています


利用者に寄り添い、望み通りの最期を迎えるお手伝いに注力していく

閑静な住宅街の中にある市唯一の養護老人ホーム

 長崎県の中央部に位置し、東の多良岳、西の大村湾に挟まれた自然豊かな土地であり、長崎空港や西九州新幹線新大村駅を擁するなど、県の玄関口ともなっているベッドタウンである大村市。その閑静な住宅街の中にある養護老人ホームが「湧泉荘」だ。

養護老人ホーム 湧泉荘の外観
閑静な住宅街の中心にある同施設の建物は、総面積1111.28㎡の敷地に立っており、建築面積623.79㎡、延べ床面積2446.64㎡、鉄筋コンクリート造りの5階建てとなっている
ホーム長の大野真治郎さん
ホーム長の大野真治郎さん

社会福祉法人樹陽会

1996年、上田医院の医師であった上田市次初代理事長が創設。1998年にデイサービスセンター「湧泉荘」を開設し、続いて、居宅介護サービスセンター「ゆうせんそう」、通所リハビリテーション・養護老人ホーム「湧泉荘」、特別養護老人ホーム・短期入所生活介護・デイサービスセンター「プレジールの丘」などを開設。現在は、上田かな理事長の下、運営している。

 ’96年、現在も隣接している’47年開院の上田医院で地域医療を行っていた上田市次初代理事長が福祉施設の必要性を感じ、社会福祉法人「樹陽会」を創設。’98年にデイサービスセンター「湧泉荘」を開設した後、居宅介護サービスセンター「ゆうせんそう」、通所リハビリテーション「湧泉荘」と業務を拡大、’04年に大村市が運営していた久原の養護老人ホームを民間委譲、’06年に郊外ではなく、住宅街の中心という地域に根差した便利な環境である現在の場所に新築移転し、大村市唯一の養護老人ホームとなったのである。ちなみに、同施設の名称は、上田初代理事長が漢方の足裏にあるつぼ「湧泉」から命名したものであるという。

 利用者は、主に市内の他、隣接する諫早市、長崎市など近隣の市町村から入居してくることが多く、前職としては、農家や商店などを営んでいた方が多いそうだ。

[1]現在の上田かな理事長のセンスにより、アジアンテイストでまとめられたシックなエントランスホール [2]前にある駐車場と共に、屋根が備わり、雨にぬれずに済むエントランス [3]まるで高級リゾートホテルのようなデザインと広さのトイレ
[4]バルコニーからは、西九州新幹線と大村湾が望める [5]さまざまな催し物が行われ、地域住民との交流の場にもなっている5階の集会室 [6]大村市の街を見渡すことができる眺めのいいマジックミラー張りとなっている5階の大浴場
[7]大きな窓で明るく、ソファもあってくつろげる4階の食堂 [8]雰囲気のいい間接照明が備えられた2階居室の廊下 [9]建物中央は、ウッドデッキが設けられた中庭から吹き抜けとなっている

アジアンテイストの落ち着いたインテリア

 同法人の理念となっているのは、「Familial(ファミリアル)」。これには「我々はご利用者様を家族と捉え、共に喜べる温かい施設を目指す」という意味が込められている。そして、方針としては「利用者及びご家族を第一に考えます」「温かみのある最高のサービスを提供します」「常に清潔で明るい施設にします」「職員の自主性を尊重し、常に資質の向上を図ります」ということを掲げて、日々業務にいそしんでいる。

 一方、同施設の理念としては、「明るく家庭的な雰囲気で『笑顔』と『安心』のある生活を提供する」としており、同法人の理念に準じて掲げられている。

 施設内のインテリアは、上田かな理事長のセンスで、マホガニーの落ち着いた色調のウッドフローリングや、各国から集められたタペストリーや彫刻などの民芸品が配された、アジアンテイストとなっているのが特徴だ。

 居室は、2階、3階、4階にそれぞれ個室が18部屋の合計54部屋を有し、そのうち、4部屋は、緊急的に外からの利用者を受け入れるショートステイに使われている。

 スタッフは、現在、男女比が1:2の合計40人。平均年齢は40.1歳。外国人スタッフとしては、ベトナム人女性の技能実習生が1人おり、施設初になるという。

[1]こちらもアジアンテイストのウッドフローリングとなっている個室 [2]利用者同士集まってくつろぎの場にもなっている2階の食堂 [3]ダイコン、ニンジン、タマネギ、サツマイモ、イチゴ、メロン、スイカなど四季折々の野菜や果物を作っている家庭菜園 [4]利用者の体の状態に合わせた補助器具が備わる2階のユニットバス [5]看護師が常駐している1階の医務室 [6]自前で食事を作り提供している1階の調理場

利用者との信頼関係を根気よく丁寧に構築

 同施設では、利用者に寄り添い、終活のお手伝いをすることに力を入れている。しかし、それは容易ではなく、本来なら家族と共に進めていくものなのだが、家族がいない、もしくは家族と不仲であるケースが非常に多いという。また、利用者やスタッフが死をタブー化する中、根気よく丁寧に利用者との信頼関係を構築し、本音を聞き出し、利用者の望む最期を実現させていきたいと取り組んでいる。

 なお、この取り組みは、老施協によって’23 年1月に開催された「第1回全国老人福祉施設大会・研究会議〜JSフェスティバル in 栃木〜」実践研究発表において、優秀賞を受賞している。

【キラリと光る取り組み】
私が望む最期 いつの日か鎌倉の海へ

「第1回全国老人福祉施設大会・研究会議〜JSフェスティバル in 栃木〜」実践研究発表優秀賞受賞
生活相談員 小島愛作さん インタビュー
生活相談員の小島愛作さん
生活相談員の小島愛作さん

――この取り組みを始められたきっかけは、どんなものだったのでしょうか?

小島:元々、私が養護老人ホームに勤めて、さまざまな経験をしていく中で、葛藤していたのが、利用者さんがお亡くなりになられたときのご家族などへの対応が非常に難しいということでした。通常、利用者さんが終末期を迎えたときに、まずご家族にご連絡するのが基本なのですが、ご家族など身元引受人がいない方がたくさんいらっしゃる。または、ご家族はいるのですが、ご連絡すると「うちには電話をかけてこないでください」などというご家族と不仲な利用者さんもいらっしゃったりします。私が福祉の仕事をするようになって、「高齢者福祉とは、人生最期のドアを閉めるお手伝いをすること」というように教えられました。その最期のドアを一緒に閉めるはずのご家族がいない高齢者があまりにも多くいらっしゃって、そこに対する難しさをずっと感じていたということが根本にあります。今回の発表でご協力いただいたYさんも、ご家族と不仲な利用者さんの一人です。Yさんは、進行性核上性まひという指定難病の診断を受けた後に、最期にどういう状態になって死ぬのかということを、医師から直接聞きました。だんだん体が動かなくなって、舌も動かなくなって、窒息して死ぬと。Yさんはそれを聞いて、病院から施設に戻ってきたとき、最初は「もう死んじゃうんだって」と笑いながら、すごく元気な様子でした。でも、私が夜勤で入ったとき、Yさんに居室に呼ばれまして、そのとき、ものすごく悲しそうでした。そういうYさんを見るのは初めてだったのですが、最初は気丈に振る舞っていらしたものの、とても不安だったのだなと改めて感じました。それで、Yさんの方から、どうせ死ぬのなら自分らしく死にたいとおっしゃったので、Yさんと共に終活のお手伝いをしようということで取り組みを始めたのです。

――この取り組みを始められるに当たって、まず何から取り掛かろうと考えたのでしょうか?

小島:まず一番最初は、基本である受容と傾聴から始めなければと思いました。それまでもYさんとの信頼関係の構築はできているつもりだったのですが、もっとより深く、本音の部分を聞き出さなければいけないと思って、1回30分程度の訪室を1日4〜5回繰り返して、Yさんとまずはじっくりとお話をすることから始めました。Yさんは、なかなか本音をおっしゃられない方なので、そこを引き出すということが一番苦労した点です。

――小島さんの努力のかいあって、Yさんの本音は聞き出せたのでしょうか?

小島:一番最初は、「自分が亡くなった後は、お金を施設に残したい」とおっしゃったのです。しかし、これは恐らく本音ではないのではと思ってお話を聞くと、本当だと言うのですね。鎌倉にご家族がいらっしゃるので、「ご家族に送ったらいかがですか?」と尋ねても、「絶対にそれはしない」とおっしゃって。ご家族は、割とYさんに歩み寄ってくれているのですが、Yさんが拒絶しているという感じで、最終的には公証役場に行って公正証書遺言を残すことになったのです。そのうち、なぜこんなに家族を拒絶するのか、話してくれるようになり、私もそれまではご家族との関係を修復したいと思っていたのですが、Yさんのお話を聞くと、Yさんのお気持ちを尊重しなければならないのではないかと思い、なかなか踏み込めなくなりました。

――その結果、終活の具体的内容としては、どのようなものになったのでしょうか?

小島:Yさんは、自分はなるべくお金を使わずに死んで、お金は公正証書遺言にある通りに、残しておきたいという思いがあるようで、そんな中で、共同墓地であれば、一人ではないし、立派なお墓を作りたくもないとおっしゃっていたのですが、それも本音じゃなかったようで、お話をずっと聞いてみると、「本当は鎌倉に帰りたい」これが本音だと。鎌倉に帰れるようにご家族と話し合いましょうと言うと、家族には絶対に世話にならないと。どうしようと考えたときに、あるときテレビに海が出てきまして、元々、私が樹木葬などの自然葬を希望しているというのがあって、海洋散骨というのはどうでしょうと提案したら、それはいいじゃないかということになったのです。理由としては、自分は鎌倉でずっと海を眺めていたので、海流でたどりたどって鎌倉に流れ着けば、鎌倉で眠るという自分の希望にかなうと。そこで、私たちは海流を調べたのですが、海流が逆向きだったのです。「これ、帰り着かないですよ」とYさんに言ったら、「何千年何万年かかってもいいから、僕は地球を旅して鎌倉に帰る」とおっしゃったので、それに決定しました。

――結果としてご満足いただけた半面、反省点もあったりするのでしょうか?

小島:私としてはYさんがご家族と和解できていないのは今も心残りですし、何とかできなかったのかなと。双方が嫌っているのだったらまだ分かるのですが、ご家族は歩み寄ろうとしてくださっているので、Yさんと上手にお話ができて、何とかできたのではないかといまだに心残りとなっています。

――今後、さらに取り組まれたい課題がありましたら、教えてください。

小島:終末期や死というものを、利用者さんである高齢者だけでなく、施設のスタッフが嫌がるケースが多いのです。「死んだらどうする?」というのを聞くこと自体がタブーというか。「私が死ぬっていうの?」と怒りだす利用者さんもいます。自分の死について、自ら前向きに話してくれる方は、なかなかいません。また、死がタブー化されている中で、スタッフの誰もが利用者さんと死について話をできるわけではなくて、やはり信頼関係がしっかり構築されていても難しいので、できる人間が限られています。それに、引き継ぎやマニュアル化もできません。利用者さんの終活が決まったときに、スタッフ全員がその方が望む最期の支援ができるのか。希望としては、全スタッフ、ひいては施設全体で取り組んでいくということが課題です。勉強会など終始徹底していかなくてはなりません。それに、ご家族とご本人の望む最期は違う場合があります。そんなときにどうするか。本人の終末期が近づいているときは、会話が難しくなっていることがほとんどですので、そうなる前に私たちがご本人のご意向を伺うのですが、後にご家族に、「ご本人が元気なときそうおっしゃっていましたよ」と伝えても「いや、そんなことはない」とおっしゃられたこともありました。そうすると、ご家族のご意向を優先するべきか、それともご本人のご意向を守っていくべきか、非常に悩みます。できれば、ご本人が元気なうちにご家族と一緒にこういう話ができるのが一番いいのですが、ご家族と疎遠な方が多くいらっしゃるので、ご家族と一緒に最期を決めるのは、本当に難しいのです。私たちは、まずは身元引受人が不在な方を優先して取り組んでいこうと考えています。私たちがやらなければ、誰もやってくれないからです。誰にも感謝されないかもしれませんが、困っている人がいれば助ける、それが福祉の本懐だと思っています。

神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜
写真=PIXTA

湧泉荘

社会福祉法人樹陽会
養護老人ホーム

湧泉荘

〒856-0024
長崎県大村市諏訪1丁目673番地
TEL:0957-52-2557
URL:https://www.juyoukai.com/yougo/

[定員]
養護老人ホーム:50人
ショートステイ:4人


撮影=山田芳朗/取材・文=石黒智樹