アーカイブ

チームのことば

【INTERVIEW】株式会社アフロ 代表取締役/フォトグラファー 青木紘二

2022.07 老施協 MONTHLY

 テレビや雑誌で、「写真/アフロ」というクレジットを目にすることはないだろうか。株式会社アフロは、風景などのイメージ写真から報道写真まで、幅広いジャンルの写真をメディアに貸し出すフォトエージェンシーだ。中でもスポーツ競技の分野では圧倒的な量とクオリティーを誇っている。日本オリンピック委員会の公式フォトエージェントでもあり、先の東京2020オリンピック・パラリンピック大会はもちろん、毎回オリンピックのダイナミックな写真を私たちに届けてくれているのだ。今回は、自身も会社のメインフォトグラファーであり、一代でこの企業を成長させた創業者の青木紘二さんにお話を伺った。


全ての仕事をリスペクトして全ての仕事を楽しく行うどのような業種でも大切にすべきことだと思います

何か一つのことではなくあらゆることを突き詰める

 まずは、自身が著名なフォトグラファーでありながら、フォトエージェンシー事業に進出するまでの青木さんの道筋から伺った。

青木「中学校に上がる前くらいから映画が好きで、高校時代には洋画雑誌に投稿した記事が採用されるようになっていました。将来は映画の仕事をしようと決め、映画を理解するために日本人にとって一番難しいヨーロッパ文化を勉強しようと考えて、スイスへ留学したんです。寄宿制の学校に入学して哲学を学びました。そこでの生活費を稼ぐため、私は雪国生まれでスキーが得意だったこともあって、国家資格を取得してスキーのインストラクターの仕事をずっとしていたんです。帰国後、本格的に映画の仕事を探そうと思ったところ、’70年代の映画界は苦しい時代。とても食べられる状況じゃないと、方々で言われたんですよね。で、それなら写真の世界に進もうって思ったんです。私の父は医者だったんですが、希代のアマチュアカメラマンでもありました。家に暗室があって、子供の頃から自分でプリントしたりもしていましたから、向いていたんでしょうね。割と早く仕事は軌道に乗りました。当時のクライアントにJALさんがいたんですが、彼らでも当時のヨーロッパのスキー事情はよく分かっていない時代でした。そのため、ヨーロッパへのスキーツアーの企画から相談に乗り、スキーの撮影もしていたら、次第に広告とスポーツが仕事の中心という珍しいカメラマンになっていたんです。英語も得意で海外の仕事が多かったので、他の国のカメラマンと知り合う機会が増えました。同業者はライバルでもあるわけですが、私は同じ仕事をしている同士は楽しく付き合った方がいいと思っているので、誰とでもすぐ仲良くなっちゃうんですよね(笑)」

 そして’80年、カメラマンを始めてわずか4年でアフロを立ち上げる。当時は広告業界全盛時代で、国内だけでもフォトエージェンシーは300社近くあったという。

青木「海外にいる仲のいいカメラマンの写真を集めて、日本でエージェントができるんじゃないかと考えました。カメラマンで食えるんだし、競合他社も多いのに大変なんじゃないかと周りからは言われたんですが、私は何か一つのことを突き詰めるんじゃなく、いろんなことを、どれも突き詰めたいという欲張りなタイプなんですよね」

変わった社名の「アフロ」は、ギリシア神話の美の神「aphrodite(アフロディーテ)」にインスパイアされて名付けられた。しかし、日本人にとって“r”は発音しづらく、“ph”を“フ”と発音することも当時はイメージしづらかったため、このスペルになったという。また、「Aoki Foto(photo) Location」という意味も
本社地下にあるプリント工房。「やりたいと思ったことにはすぐ手を出しちゃう」と青木さん。アフロは、現在10の事業を手掛けている

 アフロでは、あるテーマの写真を集めて見比べてもらったものの中から、広告やメディアが気に入ったものを借りたいという依頼をして来る仕組みだ。

青木「同じジャンル、同じ被写体でも、カメラマンによって狙いや個性も違いますから、クライアントには積極的に他のカメラマンの写真も見せるようにしました。クライアントには選択の幅が広がって喜ばれますし、他のカメラマンの信頼も得られて、ますますいい写真が集まるようになります」

 それだけではない。現在では世界の名だたる大手通信社のカメラマンが撮影した写真もアフロに集まる。複数の海外大手通信社の代理店を行っていること自体、世界的に珍しいケースなのだ。

青木「会社立ち上げ当初、最初に海外のエージェントで代理店になれたのが、イギリスのオールスポーツという、世界中のトップスポーツカメラマンが集まる集団でした。その後、ここがアメリカで立ち上がったばかりのゲッティイメージズに買い取られます。それでもしばらくは引き続きゲッティの代理店をウチがやっていたんですが、ゲッティジャパンができて離れたのを契機に、まずはロイターと代理店契約しました。’00年代半ばは、世界的に報道系と広告系の写真ビジネスが縮小していた時代でもあり、次にあえてロイターの競合のAPにも声を掛けてみたんです、一緒にやりませんかと。そこからどんどん広がっていきましたね」

オリンピック・パラリンピックは全社を挙げての一大イベント

 かくして、個人のカメラマン同様、法人である大手通信社も業界全体で前へ進もうという青木さんのポジティブパワーによって、呉越同舟に同意していったのだ。オリンピック・パラリンピックという世界中のアスリートが一堂に会するイベントの記録を残すのに、これほどふさわしい人と会社はない。

青木「オリンピックでは、契約通信社まで入れれば数え切れないほど多くのカメラマンが、1秒30枚撮影できるデジタルカメラの写真を送ってきますので、写真だけでも数百万点が集まるわけです。ウチの出版部で公式写真集を作る権利も持っているんですが、もう写真を選ぶだけで大変な労力です」

 そう、アフロは出版事業も行っている。他にも写真に関わる多くの事業を展開。当然、異なる部署同士の連携もテーマとなる。

青木「会社である以上、全体的な利益が出なければ、自分の部署だけ成績を上げても、その部署だけ給料が上がるわけじゃないですからね。ウチでは全社で社員旅行を行って、他部署の人間とつながりを持ってもらうようにしています。それと、現場の社員のモチベーションを上げるには、まずリーダーが仕事をすること。会社が小さい頃は、一番嫌な仕事を私が最初に手を付けると、それだけで現場が動くようになりました。やれって言って見ているだけより、はるかに効果があります。あと、ウチでは役職で人を呼ばずに、名前で呼ぶようにしています。その方がお互いの意見を言いやすい環境がつくれます。そして感謝ですね。他部署でも、上司でも部下でも、例えば清掃担当の人にも、『ありがとう』じゃなくて『ありがとうございます』だと私は思うんです」

フォトグラファーとしても一流である青木さん。「2000年週刊現代ドキュメント写真大賞スポーツ部門賞」や毎日新聞広告大賞など受賞歴は数多い。スポーツフォトグラファーの巨匠と言われるスティーブ・パウエルの伝記にも登場し、世界から注目を浴びた
最初にアフロがフォトエージェンシー以外に進出した部門が出版で、1998年の長野大会以降は、JOC公式写真集も手掛けている。総合フォトチーフを務めた昨年の東京2020大会では、海外のカメラマンの事情をあまり知らない日本のスタッフに、撮影現場とのセッティング指導なども行ったという
カメラマンをはじめ、多くのスタッフが作業するオフィス。“全てのカメラマンが撮影したくてしょうがない”オリンピックでは、細かい言葉を掛けずとも、最高の写真を撮るべくそれぞれが努力する。その半面、カメラマンの陣頭指揮を執る青木さんは向き不向きなどを見極め、本人のやる気をそがずに適材適所にカメラマンを配置するなど細かく配慮していく

仕事は楽しむことと相手へのリスペクトが必要

 最後に、チームに伝えているモットーがあればと伺った。

青木「いつもスタッフに言うのは、『仕事は楽しくなければいけない』ってことです。ただ、どんなにいい仕事でも、やりたい業務とやりたくない業務は50%ずつくらい。やりたくない50%をいかにすれば楽しくできるかを考えるのが大事ですね。全ての仕事をリスペクトし、全ての仕事を楽しく行う。それがどのような業種、業界でも大切にすべきことだと思います。写真だって同じです。どれだけ気持ちを入れて撮ったのかが、見る人にはちゃんと伝わるものですよね。以前、結構売れていた私の先輩カメラマンの方が五十何歳かくらいのときに、突然カメラマンを辞めるって言うから『何でですか?』と聞いたら、『最近、これでいいや』と思うようになっちゃったって。その言葉が今でも心に残っています。私も『これでいいや』と思うようになったら辞めるのかなと」

 エネルギッシュな青木さんに、そういうときは来るのだろうか?

青木「まあ、既に今は(次回オリンピックの)パリのことばかり考えていますからね。私には来ないかもしれませんね(笑)」

東京2020大会と北京2022大会の撮影チームの集合写真。世界各国のカメラマンが集うオリンピックの舞台は、それぞれが相手にリスペクトを持って接することが大切だという

株式会社アフロ 代表取締役/フォトグラファー

青木 紘二

Profile●あおき・こうじ=富山県魚津市出身。スイス留学を経て、27歳でカメラマンに。JOC公式フォトエージェントとして、長野1998大会以降、夏季・冬季全てのオリンピックで撮影を行う。東京2020大会では総合フォトチーフとして活躍。世界中のカメラマンと強い人脈を持ち、次回パリ2024大会のフォトチーフは、青木さんが2020大会で陸上のフォトチーフに抜てきした人物だという


撮影=磯﨑威志/取材・文=重信裕之