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インタビュー

介護の心の 在り方を 著名人が語る!

安藤和津「私たち介護のこと知ってます。」~実母を12年間にわたり自宅で介護

2022.05 老施協 MONTHLY

介護を必要とする高齢者を持つ家族も、施設や在宅で働く介護職も、
日々のケアを行いながら心を一定に保つのは難しいとされる介護の現場。
今回は芸能界の仕事の傍ら、在宅介護、介護福祉士としての施設勤務、
そして、介護職のケアを行うワークショップ活動経験のある三者から、
取り組み方や心の在り方、何を支えに活動してきたのかを伺った。


実母を12年間にわたり自宅で介護
安藤和津

オラキオ

背負い込んでしまうのではなく“一人ではない”と気付くことが大事

安藤和津

安藤和津

Profile●あんどう・かづ=エッセイスト。キャスターを務めた後、コメンテーターとしてテレビ・ラジオに多数出演。夫は奥田瑛二、娘は安藤桃子、安藤サクラ。自身の介護体験を綴った「オムツをはいたママ」(グラフ社)、「“介護後”うつ~『透明な箱』脱出までの13年間~」(光文社)など著作多数

長期になると考えもせず突っ走った在宅介護

「当時は、なんか様子が変だなぁくらいしか考えていなかった」と語るのは、エッセイストの安藤和津さん。脳腫瘍が原因の老人性うつ病と認知症の実母を12年間にわたって在宅介護してきた。

「最初に異変を感じたのは、次女の出産のときでした。4歳の長女が毎日同じ服でお見舞いに来るんです。袖の下から見える下着の袖口がどんどん汚れていって…。身だしなみにはうるさい母なのになんで着替えさせないんだろうという違和感がありました。でもたまたま疲れていたからとか別の理由を考えてすり変えてしまって。病気とは思いたくなかったのかもしれません」

 明るくて面倒見が良かった母親の変化を目の当たりにして「どんどん嫌いになった」と安藤さん。「感情と食欲のコントロールができなくなり、本当にヒステリックになっていきました。気に食わないことがあると口をへの字に結んでいつも不機嫌な顔つきで、目の光がなくなり焦点が合わず、ずっとボーッとしている。家の空気がどんどん負のエネルギーに侵食されていきました。さすがに私も病気を疑い、母の主治医に相談したら『病院は親のグチを言う場所ではない』と取り合ってくれず、友達に打ち明けても『親の悪口はダメ』とたしなめられる。母は攻撃的になる一方なのに誰も私のことを分かってくれない…。毎日が本当につらかった」

 頑なに検査を拒否していたお母さまがあるとき骨折。その時に受けた人間ドックで脳のMRIを撮影し病名が判明したという。

「素人でも分かるくらい大きな腫瘍が前頭葉にできていて。正直、病名を言われたときホッとしました。悪魔になった母は本当の姿ではなく、病気が原因だったんだと言われた気がして。同時に、母親をむげにしていた自分を責める気持ちと後悔に苛まれました」

主治医から「明日、起きてこれたら神様のプレゼントの一日と思って」と言われ、自宅での介護を開始。当時は介護の情報も少なく、何もかも手探り状態だった。

「介護保険制度ができる前だったので、全て私がやっていました。母が喜ぶことをして1日でも長生きしてもらうことしか考えていませんでした。それはこの数年、母を嫌いになってしまった自分への贖罪だったと思います。母が喜ぶことをしなければならないと勝手に背負い込んでしまい、当時は長期になるなんて想像もしていなかったので、出口が見えないままがむしゃらに突っ走る毎日でした。’00年には介護保険が開始され、主治医から『このままだとあなたが先に死にます』と手続きを勧められました。ただ当時は、私はもちろんケアマネさんもヘルパーさんもみんな初めての経験で、上手に活用できませんでした。やはり人と人なので相性もあり…」

仕事を続けながら2時間おきの痰の吸引、排せつの介助などを行うため、寝る時間が取れない毎日。次第に安藤さんが介護うつに。

「最終的に12年介護をしていましたが、後半は蓄積した疲れと慢性的な睡眠不足が重なり、負のスパイラル状態でした。一番つらかったのは、母がトイレに間に合わなかった時、つい『汚い』と口に出てしまったこと。珍しく見せた母の悲しげな顔は忘れられないです。もう自分が情けなくなり、どんどん追い詰められました。もちろん家族も体位交換などは手伝ってくれましたが、さすがに夫や娘に下の世話はさせたくないし、母もされたくなかったはず。だから自分がやらなきゃという気持ちだけで過ごしました。きっと孤独だったんだと思います。介護をして改めて感じたのは、“一人ではない”と気付かせてくれることです。私は心療内科の先生に「つらかったですね」と共感してもらえたことが、唯一の救いでした」

「化粧すると喜んでくれた」と、きれいにお化粧したお母さんと写る安藤さん

94年から始まった介護生活は’06年に終止符を打つことに。

「最期は家族が見守る中、見送ることができました。脳腫瘍で顔がむくんでいたのですが、亡くなったらすっと腫れが引いて見事な美人になって。それを見たら、母は思い残すことなく旅立ったんだと実感できました。」

 母親の年齢に近づき、改めて介護について考えることが増えてきたと安藤さんは言う。

「人の手はどんどん借りたらいいと思います。一人で背負い込む必要はないですから。あと、介護をされる方は心を大切にしてほしいですね。母は最期、話せなかったけど、話し掛けたらまばたきで反応するなど耳は聞こえていました。だから聞こえている、意思があると思って接していただければ。あと、『おばあちゃん』ではなく、名前で呼んであげてください。皆さんが歩んできたバックグラウンドを大切にしてほしいです。やはり人と人なので。介護する人、される人、従事する人、皆さんがそれぞれの人生を尊重できる関係になるといいですね」

安藤和津さんの心を動かしたmessage

この症状でよくここまで一緒に過ごしてこられましたね

「毎日生きていてありがとう」という気持ちで接していたら、母の行動も穏やかになったのですが、やはり意思の疎通はできないことが多く、悩む日々でした。そんな中で心療内科の先生がおっしゃった言葉です。母の病は前頭側頭型認知症と呼ばれ難病指定されているもので、攻撃性が強いんですよ。その症状をきちんと理解してくれた上に、私の気持ちにも寄り添ってくださって。初めて自分を分かってくれる人に出会えたと感じました。

撮影=佐藤友昭/取材・文=玉置晴子/衣装協力=YUKI TORII INTERNATIONAL