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第15回介護作文・フォトコンテスト結果発表!! ~つながり・絆をもう一度~①
2023.04 老施協 MONTHLY
コロナ禍で私たちを苦しめた「会えない」「触れられない」「話せない」などの状況が、少しずつ改善されてきた2022年7月。全国老施協では、第15回介護作文・フォトコンテストの募集を開始しました。おじいちゃん、おばあちゃん、子供たち、介護従事者の方々など、みんなの「つながり」や「絆」をいま一度深めていきたい。そんな思いを込めたメインテーマは、「つながり・絆をもう一度」。国籍や性別、年齢、職業などを問わず、広くみんなに呼び掛け作品を募りました。
作文・エッセイ部門、フォト部門、手紙部門、キャッチフレーズ部門の4部門に寄せられた作品数は、このコンテストが始まってから最も多い6329点。それぞれの思いがあふれてくる、優しくあたたかな作品の中から、悩みに悩んだ末に決定した、各部門の受賞作をご紹介します。
※本ページに掲載の写真は、フォト部門の入選作21作品。
作文・エッセイ部門
一般部門 最優秀賞
言葉の力
福岡県 森山さん
私はスーパーで夫と一緒に買い物中、激しい頭痛に襲われ買い物カートごと倒れ、救急車で搬送された。動脈瘤が破裂したくも膜下出血だった。搬送の途中で呼吸が止まり、瞳孔もかなり開いた状態だったが、救急医療スタッフのおかげで一命をとりとめることができた。
三カ月の間に合計四回の手術を受けた。主治医は夫に、家には帰れても社会復帰は難しいでしょうと伝えていたので、夫は自宅のバリアフリーや手すりの設置を行なっていた。
主治医から奇跡のレアケースと言われるくらい、幸いにも目立つ身体の麻痺や言語の障害もなく、リハビリに専念することになった。夫は記憶が錯綜する私を支えようと、治療を時系列でまとめてくれたり、日々の事柄を細かく記録してくれたりした。
入院三カ月目の日、リハビリの効果があるのかないのか、いつになったら退院できるようになるのかと落ち込む日があった。見舞いに来てくれる夫に感謝するも申し訳ない気持ちの方が大きくなった。このまま元気になれなかったら、私はこの人に介護という重荷を背負わせるのだろうかと不安でもあった。
「ごめんね、今日で三カ月になるね。」
とベッドに座って言う私の横に座り、夫がこう言ってくれた。
「こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど、僕はあの日、由実さんが新しい命をもって生まれてきてくれたと感じているよ。手術室から出てきたベッドで寝ている由実さんが大きな赤ちゃんに思えた。」
二人の間に子供が授かった時と同じように、「今日は目が開いた」「手を振り返した」「一人でトイレに行けた」と、私のできることが一つずつ増えるのが嬉しいという意味だった。
私はこの時ほど、言葉の力は素晴らしいと感じたことはない。介護される申し訳なさを取り払う力がある。私がリハビリを頑張ることが、介護者の喜びに繋がり、それが毎日の幸せだと感じてくれる。
完全復活ではなくても、毎日を一生懸命生きようとしてくれている君を介護することで僕は幸せを感じると伝えてくれた夫に感謝している。誰かから必要とされることがこんなにも生きる力になるということを、元気な時には気が付かなかった。
言葉は大切なものです。相手がその意味を理解できない赤ん坊でも介護老人でも、発する事で優しさや温かさが伝わっていく。リハビリのトレーニングや服薬と同じかそれ以上の介護の力を「言葉」は持っていると思います。
学生部門 最優秀賞
介護をした本人にしか分からないこと
東京都 井村さん
ヤングケアラー。最近この言葉をよく耳にする。ヤングケアラーは社会問題である、と多くの人が言っているが、確かにその意見は正しいと思う。現に、学校から帰ってきたら介護をしなければならない子どもはたくさんいて、その子どもたちに自由な時間はほとんどない。超高齢化社会の中、親の面倒と子どもの面倒の両方を見なくてはならない中高年は多く、働かなければ最低限の生活すらできない。子どもたちは親が働きに出ているので、必然的に祖父母の介護をしなくてはならない。こうした子どもの一人であった私がヤングケアラーのニュースを見るたびに思うことがある。問題だと訴えている大人たちは本当に子どもたちのことを考えているのだろうかと。私はこのように問題として大きく取り上げられていることが嫌いだ。なぜなら、介護が楽しかったからである。私は祖父母が亡くなるまで、学校に通いながらアルバイトをし、介護もしていたヤングケアラーであった。介護を始めたのは中学生の頃、祖母が脳梗塞で倒れてからであった。始めは辛いなとか、遊びたいなとか、もっと勉強したいのになとか思っていた。一緒に帰っていた友達が、「帰ったらすぐに○○公園に集合な」と遊ぶ約束をしていて、それに行けないのが悔しかったし、辛かった。だが、そんな気持ちはだんだんと消えていき、介護をする日々を繰り返しているうちにこのような気持ちはなくなり、むしろ介護が楽しいと思うようになった。私は母子家庭で育ち、生まれてから祖母に育てられたので、ずっと一緒にいた祖母と一秒でも長くいられることが本当に嬉しくて、介護をしているのを忘れるくらい楽しい時間だった。だからそんな大切な祖母のことを介護できて今では後悔もなく幸せである。私の母は、祖母が亡くなったとき、「お疲れ様。」とだけ言った。母は私が祖母を介護することが好きだったのを知っていたので、一切謝らなかったし、他に何も言わなかった。葬儀のときに親戚と集まったときには、色々な人から「かわいそうに。介護なんてやらされて。」と言われた。この言葉が一番嫌だった。親戚に対して心の中で思った。「かわいそうに。あんなに優しい祖母と一緒の時間を過ごせなくて残念だったな。後悔するなよ」と。親戚のように、介護=辛い、かわいそうと思う人がいるだろう。「介護=楽しい」という気持ちを持っているのは私だけかもしれない。だが、私は訴えたい。必ずしも介護は辛いことではないと。介護という言葉の本当の意味は、介護をやった人にしか分からない。介護をやった人によって感じ方はそれぞれ違う。介護が楽しいことだと感じている人がこの社会に一人でもいることを知ってもらいたい。
学生部門 奨励賞
忘れるって、悪くない
大阪府 瀧さん
いすに座って、じっとしていることが苦手な子どもだった。本を読むことは、きらい。読書感想文なんて、もってのほかである。夏休み、最大の試練であったと言っても、過言ではない。
そんな私に、読書の面白さを教えてくれたのは、新聞社で校閲記者として勤めていた祖父。1年に1回。大阪で一番大きな本屋。そこで、祖父は言う。「好きな本を持っておいで」表紙がきれいな本。挿絵が多い本。私が選んだ数冊を、必ず買ってくれた。
「ありがとう、面白かった」と言いたい。そう言うために、本を読んだ。これが、読書を好きになったきっかけの1つ。「本を読め」耳にタコができるほど、聞いたこの言葉。祖父は言ったことを覚えていない。
昨年7月。祖父が脳梗塞を起こしていたことが判明した。「このまま現状維持することはできない」「気づかないうちにも、確実に認知機能は低下していく」医者の言葉通り。少しずつ、できていたことが、できなくなっていった。それでも、毎朝、健康のために歩くこと。途中で、コーヒーを片手に、30分間読書をすること。約40年間続けてきたこの習慣だけは、崩さなかった。
しかし、今年の4月初旬。突然、行かなくなった。食事にも手を付けようとしない。布団から、身体を起こすのにも、一苦労。目の焦点も合わない。以前よりも、大きな脳梗塞を起こしていた。医者には、「徘徊があるかもしれない」と言われた。
毎朝9時に起きていた祖母は、祖父に合わせて、7時に起きるようになった。私は、毎日顔を出し、祖母の手伝いをした。授業がないときは、病院に付き添うようにもなった。祖父を見守る必要があるため、誰かが必ず、家にいるようにしなければ、ならなくなった。
会うたび、ほぼ毎日同じ会話の繰り返し。「仕事は?」「学校は?」「今、何年生や?」と1日に何度も聞かれる質問。質問の数だけ、答えを返す。だが、祖父は、話したことや聞いたこと、したことを、覚えていない。
祖母が買い物に出かけている間。2時間程度。この日も、いつもと同じ質問が繰り返される。さらに、10分に1回。「おばあちゃん、遅いなぁ」と苛立ちながら、つぶやく。最初は、「今出かけたところやから」と返していた。しかし、回数を重ねるにつれて、大きくなる祖父の声。私もしびれを切らし、「そんなに会いたいん?そんなに好きなん?」と聞いた。とぼけた顔で「うん」と答えた。聞いたこちらが、恥ずかしくなった。
祖父はこのことを覚えていない。私が、祖父の働いていた新聞社にインターンへ行くことになったこと。変顔をしている私を呆れたように、でも少し笑いながら見ていたこと。祖父は覚えていない。だからこそ、何度も同じような話をして、何度も同じように笑い合う時間を過ごすことができる。
忘れるって、悪くない。そこで本を逆さまにしている祖父がそう教えてくれた。次に、祖母の帰りを待つとき。2人でどんな話をしようか。楽しみで仕方がない。
学生部門 奨励賞
介護は大変。だけど…
島根県 みちろさん
私の中で介護へのイメージは「大変」という言葉が一番に出てくる。
私の祖母は認知症で介護が必要である。一緒に住んでいるので介護の大変さがしみじみ感じる。父と母もつかれている様子がとても伝わってくる。介護と「しあわせ」を一緒にしてよいのだろうか。はたまた、介護にしあわせは存在するのだろうか。そう感じてしまう。
私の母は看護師である。母の勤めている病院はおよそ七~八割が高齢者だそうだ。看護と介護の両方をしている母に聞いてみた。
「仕事をしている時に、やっててよかったと思うことってある?」
「あるよ。例えば、患者さんが元気になったり、ありがとうって言ってもらえた時かな。」母はこう答えた。私はこの母の言葉を聞いて改めて感じたことがある。それは、「ありがとう」この言葉の力だ。
「ありがとう」とささいなことでも言ってくれると心が温かくなる。この五文字の言葉にはものすごいパワーがあると思う。介護の中で「ありがとう」が溢れれば、介護される側もする側も心温まる一つになるのだと思う。
私の祖母の話に戻るのだが、祖母はデイサービスに通い十七時頃家に帰る生活を送っている。これは祖母の意見を尊重し、こういった生活となった。施設に入ろうという話もでたが、祖母は家で寝たいと言ったからだ。平日はほとんど家に誰かいるわけでもないので一人にはさせられない。デイサービスに通っているのだが、母たちは仕事からつかれて帰ってきた後での介護はとてもきついだろう。私も手伝うのだが、めんどくさいと思いながらやっていることがほとんどだ。そんな中、祖母はよく「ごめんね」と言う。なんだか、さみしい気分になる。しかしそれは、私に問題があったのだと感じた。それは表情だ。私がめんどくさいと思っていることが表情に無意識的に出ていたのかもしれない。表情は言葉だけで表せない感情が出る一つのコミュニケーションだ。笑顔でいればどちらも悪い気持ちにならないが、引きつったような顔なら良い気持ちにはならないだろう。表情はやはり重要なものだ。介護する側、される側が、より良い生活をしていきたい。
私はこの作文を通して、2つのことを考えることが出来た。一つは、「ありがとう」の力だ。「ありがとう」は心の花だ。心に咲くことで助けられることがある。感謝することの大切さが分かった。もう一つは表情。これはお互いの気持ちを変えていく。介護は大変だが、そこで多くの笑顔をつくっていきたい。
介護は大変だ。大変だからこそ、一つの言葉や表情で、やってて良かったと思えるときがあるのだ。高齢者社会となっていくうえで介護する人も増えていくだろう。無理してはいけない。しかし、「やっててよかった」と思える介護がそこにありますように。
学生部門 奨励賞
心の介護
島根県 林さん
私の曽祖母は認知症だった。曜日や日付け、薬の飲み忘れなど。最初の頃は軽い物忘れというくらいだった。「今日は何曜日かいね」とたずねてくる曽祖母。それに対して答える私。その時は「ありがとうね。」と言う曽祖母だが時間が経つとまた、「今日は何曜日かいね」とたずねてくる。その度に「今日は何曜日だよ」とあたかも初めて聞いたかのように答えてあげる。認知症というのを凄く感じる瞬間だった。
認知症はどんどん進行していった。夜中なのに起きてきてご飯を食べようとしたり、家族のことが分からなくなったり。名前を忘れられたときは凄くショックだった。だけど、わざと忘れたり間違えてる訳じゃないから仕方ないことだと思うようにした。曽祖母は誰かと話したりするのが大好きだったので沢山話をしたり聞いたりした。私のことを覚えていなくても私にとっての曽祖母には変わりないから、名前を兄弟と間違えられても、他人だと思われても辛いという気持ちにはならなかった。
祖父は、曽祖母にキツくあたるときがあるけど親子だから仕方ない。病院に連れて行くのも祖父だ。食事や身の回りの世話や介護は祖母がしていた。その時はまだ、認知症や介護について詳しく分からなかった。だから曽祖母を介護するといったような直接的な手助けは出来なかった。だけど、私に出来ることは一つあった。それは、会話だった。よく曽祖母は祖父に怒られていた。その度に私たちのところに来て話をする。それを聞いてあげる。話を聞いてあげると凄く笑顔になる曽祖母を見て、私まで嬉しくなった。「あー祖父や祖母みたいに介護することができなくても私に出来ることあるじゃん!」と思えた。
一昨年、曽祖母が亡くなった。亡くなる直前はもう会話をすることができないくらいの状態だった。それでも話をかけ続けた。だって曽祖母との思い出は何気ない会話だったり話をすることだったから。最後は家族みんな曽祖母に声をかけ続けた。父や母は仕事で忙しくてあまり、話したりすることが出来なかったと言っていた。
高校に入り福祉系列を私は選択した。授業では障害のこと、介護のこと、認知症のことなど沢山学んだ。認知症の方との接し方や特徴も学んだ。だけど、一番大事なのは一般的な介護や看護ではないと思った。心の介護が大切なんだと。直接的に助けたりすることが出来なくても会話をしてあげることで、曽祖母のときのように元気な気持ちになれたり、嬉しい気持ちになれるから。ただ会話するだけと思うが、その「会話」というのがとても大切なのだと思う。もしあなたなら、的確な介護だけどとても無愛想な人・介護は上手く出来ないけど凄く明るく会話やコミュニケーションがとれる人。どっちの人に介護されたいと思いますか?それはきっと…。
学生部門 奨励賞
見たことのないヘルパーさんへ
千葉県 次女さん
「危険を承知で、このまま介護ヘルパーを派遣させるわけにはいきません。介護施設への入所をお勧めします。ヘルパーも絶対数が少ない中で、精一杯がんばっているんです。一番近いこの診療所もいつなくなるか分からないし、救急車を呼んでも、この過疎地では相当時間が必要となります。」
三年前、祖母の住む千葉県を令和元年房総台風が襲来し、基幹道路が通行止めとなったとき、主治医に呼び出され、そう言われたそうだ。確かに祖母の住む地域は住民が減り、学校の統廃合が進み、学校は小中一貫校が一校あるだけで、車を使わなければ買い物や通院もできない不便な場所にある。いつもの倍以上の時間をかけて祖母を送り、その場に同席した父は、「自分の家に住み続けたいが、しょうがないのか。」と帰りの車内でつぶやく祖母の心情を思い、暗い気持ちになったそうだ。
祖母は祖父を亡くしてから十何年も独り暮らしを続けていたが、常々「できるだけこの家に住み続けたい。」と口にしていた。排尿機能が弱まり、定期的な導尿処置が必要となってからは、週に三~四回、介護ヘルパーさんに訪問してもらっていた。高齢なこともあり、私達家族と一緒に住むことも考えたが、日中は会社勤務や学校で結果的に独りきりになってしまうため、そういう選択をしたのだ。
しかし、この災害で状況が変わってしまった。ただでさえ移動時間がかかるのに、大幅な回り道でさらに時間が必要となる。復旧の目途も経たず、冬場に狭い脇道を通れば、路面凍結によるスリップ事故の危険も考えられる。主治医の言うことはもっともだ。
ところが、関係者が私達の事情、特に祖母の「思い出がたくさんある我が家での暮らしが守りたい。」という思いを尊重してくれて、訪問活動を続けてくれた。主治医の言葉を借りれば「危険を承知で」「がんばって」、私達のわがままを聞いてくれた。
その後、祖母は骨折による入院を経て、リハビリ施設で最期を迎えることになったが、転倒した際も痛さで気が動転したのか、一一九番ではなく、介護ヘルパーさんに電話して、救急車の手配をお願いしたと聞く。緊急入院に必要な日用品や薬の準備や、家族への連絡も、ヘルパーさんがしてくれるなど、全面的に介護ヘルパーさんに頼り切りであった。
私は学生なので、ヘルパーさんに会う機会がなかったが、もし顔を合わせていたら、心から「いつも、祖母がお世話になります。」と感謝の言葉を口にしただろう。実の家族以上に、祖母の願いがかなうように、協力してくれたのだから。
取材・文=早坂美佐緒(東京コア)