一般部門
言葉の力
福岡県 森山さん
私はスーパーで夫と一緒に買い物中、激しい頭痛に襲われ買い物カートごと倒れ、救急車で搬送された。動脈瘤が破裂したくも膜下出血だった。搬送の途中で呼吸が止まり、瞳孔もかなり開いた状態だったが、救急医療スタッフのおかげで一命をとりとめることができた。
三カ月の間に合計四回の手術を受けた。主治医は夫に、家には帰れても社会復帰は難しいでしょうと伝えていたので、夫は自宅のバリアフリーや手すりの設置を行なっていた。
主治医から奇跡のレアケースと言われるくらい、幸いにも目立つ身体の麻痺や言語の障害もなく、リハビリに専念することになった。夫は記憶が錯綜する私を支えようと、治療を時系列でまとめてくれたり、日々の事柄を細かく記録してくれたりした。
入院三カ月目の日、リハビリの効果があるのかないのか、いつになったら退院できるようになるのかと落ち込む日があった。見舞いに来てくれる夫に感謝するも申し訳ない気持ちの方が大きくなった。このまま元気になれなかったら、私はこの人に介護という重荷を背負わせるのだろうかと不安でもあった。
「ごめんね、今日で三カ月になるね。」
とベッドに座って言う私の横に座り、夫がこう言ってくれた。
「こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど、僕はあの日、由実さんが新しい命をもって生まれてきてくれたと感じているよ。手術室から出てきたベッドで寝ている由実さんが大きな赤ちゃんに思えた。」
二人の間に子供が授かった時と同じように、「今日は目が開いた」「手を振り返した」「一人でトイレに行けた」と、私のできることが一つずつ増えるのが嬉しいという意味だった。
私はこの時ほど、言葉の力は素晴らしいと感じたことはない。介護される申し訳なさを取り払う力がある。私がリハビリを頑張ることが、介護者の喜びに繋がり、それが毎日の幸せだと感じてくれる。
完全復活ではなくても、毎日を一生懸命生きようとしてくれている君を介護することで僕は幸せを感じると伝えてくれた夫に感謝している。誰かから必要とされることがこんなにも生きる力になるということを、元気な時には気が付かなかった。
言葉は大切なものです。相手がその意味を理解できない赤ん坊でも介護老人でも、発する事で優しさや温かさが伝わっていく。リハビリのトレーニングや服薬と同じかそれ以上の介護の力を「言葉」は持っていると思います。
家族の思いが詰まった桜
千葉県 ヤモンミマサツネさん
私が子供の頃のことです。
ついこの前まで元気で野良仕事をしていた祖父が急に倒れ、そのまま寝たきりになりました。
来年の桜はもう無理かもしれんな、と祖父が弱々しく言いました。
「桜はええなぁ。あれが咲いて、あれを見ると、よーし、生きちょる、という気になる」
祖父は削げ落ちた頬を歪めました。笑おうとしているのに気付いて、胸が裂けそうになりました。私は、なんとかして祖父に桜を見せてやりたいと思いながら、窓の外を見ました。そこに桜の木がありました。
私は、父親に祖父があとどれ位生きられるのか、と尋ねました。
よくて後三ヵ月、と父親ははっきりと言いました。
そんなにはっきりと言わなくてもいいのに、と私は辛い気分になりましたが、それを隠し、父親に、嘘の作り物でいいから祖父の部屋に桜の木を作って、そこに花を咲かそう、と提案しました。
しかし父親は首を横に振りました。
何故? と私は思いました。祖父は、父親の父親、二人は親子なのです。もし自分だったら、もっとやさしく、親切に、和ませ、元気づけ、その上できちんと丁寧に治療に専念させてあげる筈だ、とそう思いました。私からすると、父親は、親不幸も甚だしい子供、という具合に見えました。
だから私は怒ったように背中を向け、駆け出しました。
家族の着なくなった服を集め、鋏を持ってきて、服を、目当ての色と、目当ての大きさに、切っていきました。
糊で、切った服を使い、桜の木と、その花びら、を作りました。
理由を知った弟と母親が手伝ってくれました。
ようやく手作りの桜の木と、その木が満開になる程の花びらが作れ、いよいよそれを糊でくっつけて、祖父の部屋で咲かせようとした時、いけん、と止められました。
父親でした。
「嘘の桜を咲かしても、お爺ちゃんは喜ばん」
やっぱり父親は、祖父にとって親不幸な子供だ。もう祖父に来年の桜を見ることは出来ません。でも見せてあげたい。だからその代りに、着なくなった服を使い、こうやって桜を作って、咲かそうとしているのに、どうしてそれを止めさせるのか? 私は、憎い、という感情で見返しました。
「見たいものが見れたからと、安心して生きる気力を無くすことがある。人は、あれがしたい、これが欲しい、あそこに行きたい、という気持ちで生きられることがある。お爺ちゃんが、来年の桜が見たいと言うんやったら、本当に来年の桜を見せればええ。来年の桜を見ようって、そう応援すれば、お爺ちゃんは、まだまだ頑張れるかもしれん。嘘の桜を作って見せるよりも、来年の本当の桜を見せる方が、お爺ちゃんに、本当の頑張れを言うことになるんやないのか」
父親は、子供の私に、本気の顔と真剣な声で、そう言いました。
私は、父親の、本気の顔と真剣な声の前で、嘘の桜を作って見せることと、来年の本当の桜を見せることの、どちらがお爺ちゃんにとっていいのだろうかと考え、それは、来年の本当の桜を見せることの方だ、何故なら、それだけ長く生きられるから、と答えを出しました。
そう答えを出すと、父親は、本当は、祖父にとって親不幸な子供ではないのかもしれない、と私は、改めて父親を見ました。よくて後三ヵ月、と誤魔化さずに正直に言ってくれたのも、子供なりの私の必死さが伝わったから、きちんとそう言ってくれたのでしょう。それは、つまり、父親が、私と同じように、いや私以上に祖父のことを思っているからこその言葉だったのです。
私は、胸に、熱いものが込み上げてくるのを隠せませんでした。気が付くと、涙で前がよく見えませんでした。背中に、暖かいものが触れているのをぼんやりと感じていました。父親が撫でてくれていたのです。
父親のお陰で、祖父は、次の年の桜を見ることが出来ました。
その桜が咲くまで、着なくなった服を使って、家族で、沢山の桜の木を作りました。
着なくなった服で作った、家族の思いが詰まった桜は、私にとっての介護だったのだと、思います。
祖父が幸せそうに顔を綻ばせていた様子が今も目に浮かび、私にとっての介護にも、それなりの素晴しさがあったのだと、教えてくれたのでした。
頑固者にありがとう
東京都 田中愛子さん
亡くなった父の部屋の片づけをしていると、モスグリーンのダウンコートが出て来た。
ある冬の日、父と散歩に出ると想像以上に寒かった。新しいコートも買う予定だったので、公園の近くの店に入った。無駄遣いの大嫌いな父は、「いらない」の一点張り。
「新しいのを買いましょう」
「いらない。寒くない」
強情だ。それでも、ダウンを試着させると、
「おっ、暖かいな。これはいい」と即決。鏡を見ながらにこにこしていた。
頑固で強情で単純。
教員だった父は、私たち子供の服装や門限、テレビ番組にもとても厳しかった。
文句を言うと怒鳴られるので、兄と弟は疎ましがってさっさと家を出た。
私は女の子だったせいか、厳しさの中にも甘さがあって、兄弟で何かを頼むのは私の役割だった。
年をとっても頑固さは変わらない。
「私がおかしくなったら、お前が止めてくれ」そう言っていたのに、本当に物忘れが激しくなると、「お前の言うことなど聞かない」と怒鳴った。
運転免許返納の件では何度も大喧嘩をした。視力も判断力も落ちているのに運転をやめず、ガードレールに激突して車を壊した。幸いケガは無かったが。
私も結婚して東京にいたので、母が亡くなった時、子供たちが住む東京に来るように言うと、「お前たちの世話にはならない」。
時々新幹線に乗って遊びに来ていたが、ある時、東京駅に迎えに行くと、父は手ぶらだった。
「荷物は?」
「荷物?」
幸い、財布と切符はポケットに入っていた。駅から電話があったのは二日後。荷物の中に連絡先が入っていたのだ。もう一人暮らしは無理だ。
「嫌だ、行かない。こっちでやることがある」
そう言い続けていたのに、ある日電話でぽそっと言った。
「そっちに行くかな」
私の家の近くの施設を探し、できるだけ会いに行き外に連れ出すようにした。家にも泊まりに来てもらった。
そして、「自分ではできないでしょ」「私がやってあげているでしょ」とは絶対に言わないようにした。施設のケアマネさんやスタッフの人たちにも、父の性格や気をつけてほしいことを伝えた。
気弱になった頑固者のプライドを守るために。
ある時父がしみじみと言った。
「お前は大したものだ。私をここに連れてきて、全部やってのけたのはすごい」
この言葉に胸が詰まった。
ある朝、施設から電話があり急いでかけつけると、父の顔は穏やかで眠っているようだった。
それからの数日は慌ただしく過ぎた。
やっと落ち着いて父の荷物を片付けている時に出て来たダウンコート。
これを着る人はもういない。その瞬間、涙があふれて止まらなくなった。
子供の頃、海水浴やスキーに連れて行ってくれた。高校の合格発表に一緒に行って、番号を見つけて喜んでくれた。浮かんでくるのは笑顔ばかり。涙で何も見えなくなった。
胸の中に大きな穴が空いたような寂しさ。ここに入っていたのは父の愛。
一緒に過ごした時間を思い出しながら、「ありがとう」でこの隙間を埋めていこう。
親子で「絵画教室」「書道教室」の勉強会
山形県 古瀬さん
私達一家四人が、姑を一人にして置けないので、仙台から豪雪の尾花沢に転居以来、私の父は、多発性脳梗塞を繰返す様になった。
ずっと両親と暮らすつもりでいた私に、孫である私の二人の子どもを育てるには、別居生活ではなく、父親との同居が望ましいと言って、山形への転居を誰よりも勧めた父。
それ以来、毎週金曜日の夜、山形から実家の両親の元へ、子連れで薬の管理に通った。
入退院を繰り返して二十年。母のアルツハイマー型認知症も加わり、家族や私の妹と二人の介護について検討をしている時、父が、「なんでこんなに弱くなってしまったんだろう。生きてたって何の意味もない。お前達に苦労をかける。貯金も無くなってしまった」と涙し、死を口にするようになってしまった。
自宅を離れたくないと言う両親。明快な答えの出ないまま、一次退院した七一歳の指物職人の父に、絵を描くことを勧めてみた。
最初は、弱い赤緑色盲だから無理と拒否されたが、ならばと「墨絵」を勧めてみた。月謝も交通費も私が持つし、欄間のデザインに結び付け、勉強する事の大切さを力説した。しかし、意識は低く、暇つぶしの為にとりあえず三ケ月は墨絵教室に通う事を承諾した。
最初は、筆遣いになれる為に「笹の葉」を描くのに、葉の先の切れ味の良さの表現が難しく、一週間かけてやっと満足のいく「笹の葉」を描いた父。医師の注意を守り、時折、水分を補給しながらの絵描きが予想外の楽しさを増したのか、ある日、
「俺、色のついた絵を描いてみたい。ママ、教えてくれ。山形から通えるか?」との事。
仕事を持っている私は、非常に困った。また、中高校生になった子ども達の日曜の行事の応援に保護者の出番もあった、そこで、ウィークデーの夕方、勤務終了後すぐに、コンビニお握りを放ばりながら実家に行き、二時間程、絵具遊びや画材の使い方を中心に一緒に遊んだ。週二回の「親子絵画教室」と母には、筆ペンでの「書道教室」を実施。二人に対する褒め殺し連発の勉強会と二人分の数種類の薬に個人名と服用日時を全てに書き、一回分づつセロテープに貼り、ゴムでまとめる薬管理をして帰るので、帰宅はいつも真夜中。
そして三ケ月。今度は、河北美術展に出品したいと言われて、ビックリ仰天。力量を考えれば家族は反対した。私は、人の可能性を引き出す仕事をする立場にいたので、出品料を出し、父が描いた幼子の描いたような作品を会場のレジャーセンター迄運んだ。なんと予想外の入選。中央の審査員二人に「表現の本質を突く素直な絵」と評価された。
その後、洋画、日本画、彫刻の3部門で同時入選や入賞を繰り返し、マスコミで取上げられ、一躍、時の人になった父。日々、規則正しく絵描きに熱中して十三年。脳梗塞は起きず、支えた医師も家族もビックリ。人は、やるべき課題が有って、学ぶ意欲に支えられると病気も逃げ出すという事を教えられた。
お母さんが教えてくれること
東京都 青木さん
「お母さんから、教えてもらうことはもうないんだなあ。」
母に認知症の症状が出始めて2年、体力的にも精神的にも苦悶するような日々だったのだが、私にとって、最もつらかったのは、もうお母さんから何も教えてもらえないという事実だった。
こどもの頃から母の隣にいることが大好きだった。お米のとぎ方や、台所のシンクをきれいにふきあげること、編み物や、人に感謝を伝えること、母の手からたくさんのことを教わってきた。
その母の手をひき、病院へ何度も通う日々。いくら日にちを書き込んでも薬を飲み間違えてしまう。電子レンジも洗濯機も教えても教えてもすぐに忘れてしまう。イライラしてしまい、「いい加減にしてよ」と声を荒げてしまうと、「すぐに忘れちゃってごめんね、頭が悪くなっちゃって。」と悲しそうに謝る母。その姿に罪悪感で消えてしまいたくなった。気が付けば、あれほどきれいに磨かれていた台所のシンクは油で汚れていた。
介護サービスを利用してはいたが、煮詰まってしまった私を見かねて、家族が近場へ一人旅をしてみる提案をしてくれた。
その日はヘルパーさんや息子たちに介護をお願いして、鎌倉へと出かけてみた。お寺を巡りながらふと一軒の木工のお店に入ってみた。お弁当箱やまた板など様々な木製の製品を作っている職人さんが朗らかに話しかけてくれた。いかに愛情をもって木を磨いているか。ふと目を向けると少し古そうな曲がった木が置いてあった。職人のおじいさんは私の視線の先に気づいて、「これは古くて曲がった木なんだよねぇ。人間もそうだけど、素直でまっすぐな木は磨いていてもすごく楽なの。古かったり曲がっているのは倍ぐらい時間がかかっちゃう。でも好きで曲がって生えたわけじゃないもんねぇ。愛情もって時間かけて磨くのよ。」
はっとした。お母さんだって好きで認知症になったわけじゃない。これまでたくさん教えてくれていた大好きだったその手を、私は愛情をもって握って歩いていただろうか。
おじいさんにお礼を言いながら、よく磨かれたつややかな檜の菜箸を購入して帰宅した。母に何か好きなものを作ってあげたいと思った。
日々病院で検査のパートをしながら、いけないことだが患者さんではなく、カルテや検査内容ばかりに気を取られることがある。そんな私の見ている世界が、鎌倉へ出かけて以来少し変わった。皆母のように、望んでなくとも様々な事情を抱えているのだ、と一瞬思い至れるような気持ちを持てるようになったのだ。当たり前のことだが、相手の立場に立って物を考えることの大切さにこの歳にして改めて身に染みて思い知らされた。
また、母に教えてもらえたな。と久しぶりに視線を初秋の高い青空に向けた。
桜の季節がくるたびに
熊本県 伊藤さん
「私は、介護してもらうなんて嫌だなあ」母の入院生活はその言葉から始まった。父が亡くなって7年、何でも一人でやってきた、母らしい言葉だなあと心の中で思いながら、私は病院の窓から満開の桜を眺めていた。
胃と大腸に癌がみつかり、既に手術も難しい状態。突然余命半年と告げられ、その日から始まった入院生活。検査や抗がん剤の治療で、体力や食欲も日に日に落ちていき、自分ひとりではできないことも増え、手助けが必要な場面も多くなっていった。
母は介護をしてもらうのを嫌がっていたので、どんな気持ちでいるのだろうと思いながらも、本音を聞けないまま、私は車イスを押したり食事や着替えを手伝ったりしていた。
そのような毎日が過ぎ、母の病状は治療の甲斐もあって落ちつき、いつしかまた桜の季節になっていた。母が桜を見たいというので、病院の廊下を桜が見える所まで移動すると、目の前には熊本城を背景に満開の桜が広がっていた。その景色を見ながら、私は1年前に感じた思いをつい口にした。「昨年はちょうどここで桜を見ながら、来年の桜はもう一緒に見られないんだなあと思ったんだよ」と。すると母は「あの時はね、どうせ死ぬんだったら、人に介護してもらわないと生きていられないんだったら、もうすぐにでも死んでもいいと思ってたんだよ。でも今はあなたたちのために、一日でも長く生きていたいと思うようになったよ。だって毎日あなたたちが会いにきてくれる今が一番幸せだから」その言葉を聞いて、私のやっていることはまちがっていないのだと、少しだけ答えがみつかったような気がした。
そんな穏やかな生活が、もしかしたらこの先もずっと続くのではないか思っていたが、2度目の夏が過ぎ。秋も終わりに近づく頃、目に見えて母の容態は悪化していった。「年を越すのは厳しいかもしれません」という主治医の言葉通り、師走に入ってまもなく母は静かに息をひきとった。
最後の時、傍にいてくださった看護師さんに、介護なんて何もしてあげられなかったと私は思わず後悔を口にした。するとその方は私を抱きしめて「こうやって毎日会いに来て話をして、それだって立派な介護なのよ」そう言ってくださった。その言葉を聞いた時、私は胸のつかえがとれ、安心して母を見送ることができた。その方とは今でも時々お会いして、母との思い出話に花を咲かせている。これも母が作ってくれた絆だと思う。
それから毎年、春になると熊本城へ桜を見に行くようになった。熊本地震で熊本城は大きく傷ついてしまったが、その時も桜の木は堂々とした姿で立っていた。最近になって知ったことだが、桜の花言葉には「私を忘れないで」という意味もあるそうだ。母が残してくれた多くの絆を大切にしながら、私もあの桜のように強く生きていこうと思う。
学生部門
介護をした本人にしか分からないこと
東京都 井村さん
ヤングケアラー。最近この言葉をよく耳にする。ヤングケアラーは社会問題である、と多くの人が言っているが、確かにその意見は正しいと思う。現に、学校から帰ってきたら介護をしなければならない子どもはたくさんいて、その子どもたちに自由な時間はほとんどない。超高齢化社会の中、親の面倒と子どもの面倒の両方を見なくてはならない中高年は多く、働かなければ最低限の生活すらできない。子どもたちは親が働きに出ているので、必然的に祖父母の介護をしなくてはならない。こうした子どもの一人であった私がヤングケアラーのニュースを見るたびに思うことがある。問題だと訴えている大人たちは本当に子どもたちのことを考えているのだろうかと。私はこのように問題として大きく取り上げられていることが嫌いだ。なぜなら、介護が楽しかったからである。私は祖父母が亡くなるまで、学校に通いながらアルバイトをし、介護もしていたヤングケアラーであった。介護を始めたのは中学生の頃、祖母が脳梗塞で倒れてからであった。始めは辛いなとか、遊びたいなとか、もっと勉強したいのになとか思っていた。一緒に帰っていた友達が、「帰ったらすぐに○○公園に集合な」と遊ぶ約束をしていて、それに行けないのが悔しかったし、辛かった。だが、そんな気持ちはだんだんと消えていき、介護をする日々を繰り返しているうちにこのような気持ちはなくなり、むしろ介護が楽しいと思うようになった。私は母子家庭で育ち、生まれてから祖母に育てられたので、ずっと一緒にいた祖母と一秒でも長くいられることが本当に嬉しくて、介護をしているのを忘れるくらい楽しい時間だった。だからそんな大切な祖母のことを介護できて今では後悔もなく幸せである。私の母は、祖母が亡くなったとき、「お疲れ様。」とだけ言った。母は私が祖母を介護することが好きだったのを知っていたので、一切謝らなかったし、他に何も言わなかった。葬儀のときに親戚と集まったときには、色々な人から「かわいそうに。介護なんてやらされて。」と言われた。この言葉が一番嫌だった。親戚に対して心の中で思った。「かわいそうに。あんなに優しい祖母と一緒の時間を過ごせなくて残念だったな。後悔するなよ」と。親戚のように、介護=辛い、かわいそうと思う人がいるだろう。「介護=楽しい」という気持ちを持っているのは私だけかもしれない。だが、私は訴えたい。必ずしも介護は辛いことではないと。介護という言葉の本当の意味は、介護をやった人にしか分からない。介護をやった人によって感じ方はそれぞれ違う。介護が楽しいことだと感じている人がこの社会に一人でもいることを知ってもらいたい。
受賞者コメント
私が一番に伝えたかったことは、介護は自分なりの形で良いということです。私個人の介護に対する思いを書きましたが、私のように介護をしてほしい、介護を楽しいと思ってほしいわけではなく、自分なりの自分に合った介護のやり方を見つけてほしいと思っています。賞を頂けたことはとても嬉しいですが、それよりもこれらのことが多くの人に伝わる機会を得られたことが何よりも嬉しいです。
忘れるって、悪くない
大阪府 瀧さん
いすに座って、じっとしていることが苦手な子どもだった。本を読むことは、きらい。読書感想文なんて、もってのほかである。夏休み、最大の試練であったと言っても、過言ではない。
そんな私に、読書の面白さを教えてくれたのは、新聞社で校閲記者として勤めていた祖父。1年に1回。大阪で一番大きな本屋。そこで、祖父は言う。「好きな本を持っておいで」表紙がきれいな本。挿絵が多い本。私が選んだ数冊を、必ず買ってくれた。
「ありがとう、面白かった」と言いたい。そう言うために、本を読んだ。これが、読書を好きになったきっかけの1つ。「本を読め」耳にタコができるほど、聞いたこの言葉。祖父は言ったことを覚えていない。
昨年7月。祖父が脳梗塞を起こしていたことが判明した。「このまま現状維持することはできない」「気づかないうちにも、確実に認知機能は低下していく」医者の言葉通り。少しずつ、できていたことが、できなくなっていった。それでも、毎朝、健康のために歩くこと。途中で、コーヒーを片手に、30分間読書をすること。約40年間続けてきたこの習慣だけは、崩さなかった。
しかし、今年の4月初旬。突然、行かなくなった。食事にも手を付けようとしない。布団から、身体を起こすのにも、一苦労。目の焦点も合わない。以前よりも、大きな脳梗塞を起こしていた。医者には、「徘徊があるかもしれない」と言われた。
毎朝9時に起きていた祖母は、祖父に合わせて、7時に起きるようになった。私は、毎日顔を出し、祖母の手伝いをした。授業がないときは、病院に付き添うようにもなった。祖父を見守る必要があるため、誰かが必ず、家にいるようにしなければ、ならなくなった。
会うたび、ほぼ毎日同じ会話の繰り返し。「仕事は?」「学校は?」「今、何年生や?」と1日に何度も聞かれる質問。質問の数だけ、答えを返す。だが、祖父は、話したことや聞いたこと、したことを、覚えていない。
祖母が買い物に出かけている間。2時間程度。この日も、いつもと同じ質問が繰り返される。さらに、10分に1回。「おばあちゃん、遅いなぁ」と苛立ちながら、つぶやく。最初は、「今出かけたところやから」と返していた。しかし、回数を重ねるにつれて、大きくなる祖父の声。私もしびれを切らし、「そんなに会いたいん?そんなに好きなん?」と聞いた。とぼけた顔で「うん」と答えた。聞いたこちらが、恥ずかしくなった。
祖父はこのことを覚えていない。私が、祖父の働いていた新聞社にインターンへ行くことになったこと。変顔をしている私を呆れたように、でも少し笑いながら見ていたこと。祖父は覚えていない。だからこそ、何度も同じような話をして、何度も同じように笑い合う時間を過ごすことができる。
忘れるって、悪くない。そこで本を逆さまにしている祖父がそう教えてくれた。次に、祖母の帰りを待つとき。2人でどんな話をしようか。楽しみで仕方がない。
介護は大変。だけど…
島根県 みちろさん
私の中で介護へのイメージは「大変」という言葉が一番に出てくる。
私の祖母は認知症で介護が必要である。一緒に住んでいるので介護の大変さがしみじみ感じる。父と母もつかれている様子がとても伝わってくる。介護と「しあわせ」を一緒にしてよいのだろうか。はたまた、介護にしあわせは存在するのだろうか。そう感じてしまう。
私の母は看護師である。母の勤めている病院はおよそ七~八割が高齢者だそうだ。看護と介護の両方をしている母に聞いてみた。
「仕事をしている時に、やっててよかったと思うことってある?」
「あるよ。例えば、患者さんが元気になったり、ありがとうって言ってもらえた時かな。」母はこう答えた。私はこの母の言葉を聞いて改めて感じたことがある。それは、「ありがとう」この言葉の力だ。
「ありがとう」とささいなことでも言ってくれると心が温かくなる。この五文字の言葉にはものすごいパワーがあると思う。介護の中で「ありがとう」が溢れれば、介護される側もする側も心温まる一つになるのだと思う。
私の祖母の話に戻るのだが、祖母はデイサービスに通い十七時頃家に帰る生活を送っている。これは祖母の意見を尊重し、こういった生活となった。施設に入ろうという話もでたが、祖母は家で寝たいと言ったからだ。平日はほとんど家に誰かいるわけでもないので一人にはさせられない。デイサービスに通っているのだが、母たちは仕事からつかれて帰ってきた後での介護はとてもきついだろう。私も手伝うのだが、めんどくさいと思いながらやっていることがほとんどだ。そんな中、祖母はよく「ごめんね」と言う。なんだか、さみしい気分になる。しかしそれは、私に問題があったのだと感じた。それは表情だ。私がめんどくさいと思っていることが表情に無意識的に出ていたのかもしれない。表情は言葉だけで表せない感情が出る一つのコミュニケーションだ。笑顔でいればどちらも悪い気持ちにならないが、引きつったような顔なら良い気持ちにはならないだろう。表情はやはり重要なものだ。介護する側、される側が、より良い生活をしていきたい。
私はこの作文を通して、2つのことを考えることが出来た。一つは、「ありがとう」の力だ。「ありがとう」は心の花だ。心に咲くことで助けられることがある。感謝することの大切さが分かった。もう一つは表情。これはお互いの気持ちを変えていく。介護は大変だが、そこで多くの笑顔をつくっていきたい。
介護は大変だ。大変だからこそ、一つの言葉や表情で、やってて良かったと思えるときがあるのだ。高齢者社会となっていくうえで介護する人も増えていくだろう。無理してはいけない。しかし、「やっててよかった」と思える介護がそこにありますように。
心の介護
島根県 林さん
私の曽祖母は認知症だった。曜日や日付け、薬の飲み忘れなど。最初の頃は軽い物忘れというくらいだった。「今日は何曜日かいね」とたずねてくる曽祖母。それに対して答える私。その時は「ありがとうね。」と言う曽祖母だが時間が経つとまた、「今日は何曜日かいね」とたずねてくる。その度に「今日は何曜日だよ」とあたかも初めて聞いたかのように答えてあげる。認知症というのを凄く感じる瞬間だった。
認知症はどんどん進行していった。夜中なのに起きてきてご飯を食べようとしたり、家族のことが分からなくなったり。名前を忘れられたときは凄くショックだった。だけど、わざと忘れたり間違えてる訳じゃないから仕方ないことだと思うようにした。曽祖母は誰かと話したりするのが大好きだったので沢山話をしたり聞いたりした。私のことを覚えていなくても私にとっての曽祖母には変わりないから、名前を兄弟と間違えられても、他人だと思われても辛いという気持ちにはならなかった。
祖父は、曽祖母にキツくあたるときがあるけど親子だから仕方ない。病院に連れて行くのも祖父だ。食事や身の回りの世話や介護は祖母がしていた。その時はまだ、認知症や介護について詳しく分からなかった。だから曽祖母を介護するといったような直接的な手助けは出来なかった。だけど、私に出来ることは一つあった。それは、会話だった。よく曽祖母は祖父に怒られていた。その度に私たちのところに来て話をする。それを聞いてあげる。話を聞いてあえると凄く笑顔になる曽祖母を見て、私まで嬉しくなった。「あー祖父や祖母みたいに介護することができなくても私に出来ることあるじゃん!」と思えた。
一昨年、曽祖母が亡くなった。亡くなる直前はもう会話をすることができないくらいの状態だった。それでも話をかけ続けた。だって曽祖母との思い出は何気ない会話だったり話をすることだったから。最後は家族みんな曽祖母に声をかけ続けた。父や母は仕事で忙しくてあまり、話したりすることが出来なかったと言っていた。
高校に入り福祉系列を私は選択した。授業では障害のこと、介護のこと、認知症のことなど沢山学んだ。認知症の方との接し方や特徴も学んだ。だけど、一番大事なのは一般的な介護や看護ではないと思った。心の介護が大切なんだと。直接的に助けたりすることが出来なくても会話をしてあげることで、曽祖母のときのように元気な気持ちになれたり、嬉しい気持ちになれるから。ただ会話するだけと思うが、その「会話」というのがとても大切なのだと思う。もしあなたなら、的確な介護だけどとても無愛想な人・介護は上手く出来ないけど凄く明るく会話やコミュニケーションがとれる人。どっちの人に介護されたいと思いますか?それはきっと…。
見たことのないヘルパーさんへ
千葉県 次女さん
「危険を承知で、このまま介護ヘルパーを派遣させるわけにはいきません。介護施設への入所をお勧めします。ヘルパーも絶対数が少ない中で、精一杯がんばっているんです。一番近いこの診療所もいつなくなるか分からないし、救急車を呼んでも、この過疎地では相当時間が必要となります。」
三年前、祖母の住む千葉県を令和元年房総台風が襲来し、基幹道路が通行止めとなったとき、主治医に呼び出され、そう言われたそうだ。確かに祖母の住む地域は住民が減り、学校の統廃合が進み、学校は小中一貫校が一校あるだけで、車を使わなければ買い物や通院もできない不便な場所にある。いつもの倍以上の時間をかけて祖母を送り、その場に同席した父は、「自分の家に住み続けたいが、しょうがないのか。」と帰りの車内でつぶやく祖母の心情を思い、暗い気持ちになったそうだ。
祖母は祖父を亡くしてから十何年も独り暮らしを続けていたが、常々「できるだけこの家に住み続けたい。」と口にしていた。排尿機能が弱まり、定期的な導尿処置が必要となってからは、週に三~四回、介護ヘルパーさんに訪問してもらっていた。高齢なこともあり、私達家族と一緒に住むことも考えたが、日中は会社勤務や学校で結果的に独りきりになってしまうため、そういう選択をしたのだ。
しかし、この災害で状況が変わってしまった。ただでさえ移動時間がかかるのに、大幅な回り道でさらに時間が必要となる。復旧の目途も経たず、冬場に狭い脇道を通れば、路面凍結によるスリップ事故の危険も考えられる。主治医の言うことはもっともだ。
ところが、関係者が私達の事情、特に祖母の「思い出がたくさんある我が家での暮らしが守りたい。」という思いを尊重してくれて、訪問活動を続けてくれた。主治医の言葉を借りれば「危険を承知で」「がんばって」、私達のわがままを聞いてくれた。
その後、祖母は骨折による入院を経て、リハビリ施設で最期を迎えることになったが、
転倒した際も痛さで気が動転したのか、一一九番ではなく、介護ヘルパーさんに電話して、救急車の手配をお願いしたと聞く。緊急入院に必要な日用品や薬の準備や、家族への連絡も、ヘルパーさんがしてくれるなど、全面的に介護ヘルパーさんに頼り切りであった。
私は学生なので、ヘルパーさんに会う機会がなかったが、もし顔を合わせていたら、心から「いつも、祖母がお世話になります。」と感謝の言葉を口にしただろう。実の家族以上に、祖母の願いがかなうように、協力してくれたのだから。
- 第15回 介護作文・フォトコンテスト事務局
- MAIL:kaigo@koubo.co.jp
受賞者コメント
この度は、選んでいただき有難うございます。闘病中に夫からかけてもらった言葉に感謝し、これを形にして残したいと思ったのが書くきっかけでした。介護の現場はする側もされる側も時々心が疲れてしまうことがあります。そんな時に少しでも元気をおすそ分けできる一助となれば幸せに思います。