わたしのALS患者五年生の介護修学旅行
(広島県 堀内さん)
「お母さん、原辰徳監督が同窓会で広島に来られるって。お父さんを会わせられないかしら」
娘の思わぬ報に、私は飛びついた。が…。人工呼吸器装着、胃瘻造設のALSではと一抹の不安も過(よ)ぎる。でもジャイ狂と言われるジャイアンツ大ファンの夫。監督に一目会わせたいと私と娘が同窓会幹事をお訪ねした。
幹事は即関係各位に手配下さり、面会可能となった。主治医の許可も無事に得、面会実現に一歩近付いた。しかし、人工呼吸器、胃瘻装置手配等々伏兵が多い。
早速当日のホテルを娘と訪問。病人のベッド、部屋、こちらの随員用として二部屋確保。そこへ在宅介護の先生も御同行していただけるとの吉報。夢は現実にまた一歩前進。
いよいよ面会当日。電車、介護タクシーと乗り継ぎ、人工呼吸器隊を先頭に、ぞろぞろと十数人の大行進。
ホテルの結婚式客、宿泊客の注目の的となり、夫はいささか疲れ気味の様子であった。
痰の吸引、脈拍・体温測定、水分補給といつもの行程を終えたところにいよいよ原辰徳監督の御登場となった。会場での挨拶を終えるとすぐ、車椅子で待ち構えていた夫の元へ。
会場が一段と大きな拍手に沸いた。監督が「奥さんと娘さんもうちの大学だけど、御主人は違うんですね」とニコニコ話しかけられた。ふと夫を見ると、顔中ぐちゃぐちゃにして泣いている。感極まっての嬉し泣きだ。
帰路は、往きがあまり電車が揺れたので帰りは介護タクシーをお願いした。我が家まで3時間余、とても細かい心遣いをして下さる運転手さんに恵まれ、夜9時、無事に夫にとっての修学旅行は終了となった。
「みなさん、いろいろお世話になりました」
と御挨拶をし介護室を見廻すと、先生を始めとして、ベテランの看護師、ヘルパーのみなさんも、くたくたにお疲れの御様子。
それにひきかえ、ベッド上の主役は大きな真ん丸の眼を見開いて、私をみつめてにんまり笑っている。一番元気で、満足気だ。
家でただ天井を見つめているだけの闘病生活はさせたくないという家族の思いを知って介護のみなさんは『チーム昭四郎(夫の名)』を結成下さり「今のランドセルはずいぶん大きくなったと思っていると、ランドセルが大きいのではなくて、子供の背中が小さいのだと判ったの」とか、「今朝夫とけんかして私が勝ったの」というヘルパーさんに「うちはいつもそうよね」と私が半畳を入れると、私の顔をみつめてニヤリとする夫。
我が家のALS生は、かなりのびやかに療養生活ができていると自己満足している私。
たくさんの明るい応援団に支えられ、それから3年、夫は5年余のベッドの主を返上し異界へ。葬送車を送るみなさんは、涙こそあったがお互いに心からお疲れさまと夫と私を送り出して下さった。
私は(ありがとう。チーム昭四郎ばんざい)
と心の中で大声で叫んで、頭を下げた。
行く道
(北海道 片桐さん)
夫の仕事の都合で、引越した先は昔、炭鉱があった斜陽の街だった。
息子が大学生だった為、私も仕事に就く必要が有り、以前勤めていた医療関係の仕事を探すも見付からず、途方に暮れていた。
その時、募集のあった特別養護老人ホームへ資格はないも、面接に行った。試験の結果採用になり、「資格は徐々に取得して下さい」と云われた。既に47歳になっていた。
何も分からない私を、先輩達が細やかに教え導いてくれ、有り難かった。覚えることが数々あり、学生並に勉強を始めた。
そんな中「ヘルパー二級」を通信で、現場で三年働き「介護福祉士」を、介護保険、開始に向け「介護支援専門員」を取得した。
現場では、ご利用者に、自分がこれから行かねばならない、人生の道程を有りのまま見せて貰った。
Tさんは、若い頃から「本」が大好き。でも農家の仕事は忙しく「トイレに入る僅かな時間で本を読んでいた」と目を遠くへやった。
「今は、目が可哀想で、活字を見ないようにしている」と話してくれた。後日絵本を読んでさしあげたら、顔をほころばせた。
最近、私もドライアイや白内障になり、Tさんの言った通り目が「可哀想」と感じる齢に近づこうとしている。
「昔、リレーの選手だった」と話すKさんは、歩行器に助けられてやっと歩いている。
私の脚も長距離は無理になりつつある。
「夜眠られない」と云うMさんには、温かいミルクとお八つで、お喋りした後は、スヤスヤと眠りに入った。
耳が遠くなり、「早口で話されると何を言っているのかわからない」と怒っていたBさんには、耳元でゆっくり話すと「聞こえる」と云って両手でまるを作ってくれた。
「トイレに間に合わなかった」と悄気ているAさん、早目にトイレの声掛けをしたら、笑顔が多くなり、私も嬉しかった。
何より、どんな小さな事でも、手を添えると、「ありがとう」と笑顔が返ってくる。幸せを頂いたのは私の方だった。
こんなにも素直に、全てを委ねてもらい、多くのことを教えられ学んだ。
今、自分が施設で関わった方々の齢に近づく中で、これから必要なことは、みんな人生の先輩から教わったと思う。
最後の時、自分の全てを委ねられる人が傍に居てくれたら、安心だと思う。
その為に介護の専門職が有ると思っている。人間丸ごと支えるには、感性も想像力も優しさも、常に学ぶ向上心も必要な仕事、生き甲斐のある仕事と思っている。
家族と医療、介護が夫れ夫れの立ち位置で日常を、最後の時を支え、ご利用者から「私の人生幸せだった」と感じて貰えたらと思う。
暗い気持で訪れた寂びれた炭坑の町は、思い返すと、人生の大切なものを与えてくれた。
今はこの町に心から感謝している。
ずるい
(広島県 中本さん)
このコンクールに応募しようと思ったのはずるいNさんの事を一人でも多くの人に知って欲しかったからです。
Nさんと生活相談員の私は施設での生活ルールの事、Nさんの健康に関する事でNさんの希望に添えずによくぶつかっていた。
「もう貴方の顔なんて見たくない。ここは監獄なの?もう腹立つ!」と言われる事なんてしょっちゅうで、でも最後はいつもNさんが折れて私の言う事を聞いてくれていた。
昨年の暮れにNさんの主治医から施設に連絡が入った。紹介状出すからNさんになるべく早く精密検査を受けさせなさいとの事。
精密検査の結果、ステージⅢの肝臓癌と診断された。Nさんは診断結果を告知されても動じず、最期まで施設で生活する事を希望された。
それからは癌の進行と既往の心不全により入退院を繰り返した。
今年1月、Nさんは体調が良くなると退院したいと強く訴えてきた。ここはケアハウスで看取りも無く、医師も看護師もいない。退院して戻って来ても満足な医療処置は受けられない。ご親族と私がどんなに説得しても
「施設に絶対帰る」の一点張りで最後は私が折れた。
退院して1週間、Nさんの体調が急変、救急搬送し、病室の外で待っているとNさんに呼ばれた。Nさんは私に手をさし伸べてき た。私が手を握ると、その場にいた医師・看護師に向かって小さく優しい声で
「この人にはね、本当にお世話になったのよ。すごくいい人なの」と繰り返し言うのだ。
Nさん、ずるいよ。こんな時にそんな事言うなんて、いつもみたいに元気に大きい声で怒ってよ。今しんどいでしょ?私の事なんて良いから治療に専念してよ。私はこんな時に他人を思いやるNさんの慈愛に触れてその場で泣いてしまった。
3日後、Nさんは亡くなられた。通夜に参列するとNさんの後見人より、Nさんが私の事を息子のように思っていたと聞かされた。
決して泣くまい。笑顔でお見送りをしようと思っていたのにNさんの安らかなお顔を拝見して涙が止まらなかった。こんなに泣かされるとは思わなかった。最後にNさんからこれまでの事で仕返しをされた気がした。
施設での生活であんなに私とぶつかり、不自由な思いもしていたのに施設に戻ることを希望されたNさん。
「Nさん、ここはそんなに居心地良かったですか?
今の入居者の方たち、これから出会う入居者全員がNさんのように最期までここに居たい、居心地が良い施設と思ってもらえる様に生活相談員として頑張りますね。」
ヘルパーさんは緩衝材
(大分県 ひめこにここさん)
「聞いてくださいよ。私に、あれしろ、これしろって命令ばっかり。私の言うことは全然聞いてくれないんです」「血圧が高いから味付けを薄めにしているのに、刺身なんかは醤油をたっぷりつけて食べるんですよ。それを注意したら、浸るほど醤油をかけるんです」80歳の母は一人で生活している。母は長年、農作業をしていたためか膝が曲がり痛みも強い。思うように体が動かなくなり介護認定を受け週2回ヘルパーさんにきてもらう。私は月に1回、自宅から車で3時間かけて帰省し病院受診や買い物、役所の手続きなど外出することが多かった。
コロナ感染が拡大しても定期的に帰省はしているのだが、母の顔が険しくなっていく。私への嫌味も多くなり言葉も刺々しい。「どうしたん。なんかあったん?」と聞いても「別に」とだけ言う。でも、こう答えるときは、必ず「何か」ある。ヘルパーの山本さんが訪問してくれる時間に合わせて私も帰省した。母の最近の様子を聞く。「最近、何かイライラしているみたいだと娘さんのことを心配されてました。親子ですね。お互い心配なんですね」そう言って山本さんは笑った。私が母のことを思うように、母も同じことを考えていたのだ。山本さんに話さなければ、ずっとお互い平行線でギスギスしたままだったかもしれない。
翌月、運転しながら優しい気持ちで母に話をしようと決めて会いに行く。「ただいまー」なるべく明るい声で玄関を開けると、私の顔を見るなり「あら。帰り道、覚えとったんか」といきなりの嫌味に「忘れるわけないじゃん」優しく答える。滞在中、食事中「味が呆けとる。醤油もってこい」「もう帰るんか。私は話したいことも話さんで、箪笥の中にしまったまんまで死なないけん」などなど、夜遅くまで話し込んでいても、体のことを考えての薄味も、母にとっては満足することがないのだろう。優しい気持ちで母と話そうと決めていたはずなのに、帰る直前に私の心の中の留め金が外れた。「いい加減にして。どうしてそんなに嫌味ばっかり言うん。そんなんだったらもう来んけえ」と言って車に乗り実家を後にした。
「もう行かない」と言い捨てて帰ってから、3日後、ヘルパーステーションからの電話があった。電話を取ると山本さんの声がする。「お母さんから聞きました。言い過ぎたことを悔やんでおられましたよ。お電話をしてもらえませんか」と言われて、私の心が決壊した。泣きながら頷く。その夜、母に電話をした。「山本さんから電話をもらったよ。私こそ言い過ぎたね。ごめんね」素直に言えた。翌日、お礼の電話をすると「似たもの同士の親子なんですね。本当は仲良しなんですよね」と言われて照れ臭かった。近過ぎて見えなくなったり、素直に言えないこともたくさんある。ヘルパーさんって掃除や調理をしてくれるだけじゃなくて、直接言えない気持ちや言葉を伝えてくれる。これからもよろしくお願いします。
利用者から教えていただいたこと
(兵庫県 山川さん)
私は、特別養護老人ホームで勤務しています。仕事を通して多くの利用者の方と出会い、お見送りもしてきました。終末期ケアをしているので最期に立ち会う場面は、何度も経験しました。先日も早番で早朝に出勤すると、夜勤者が「もうSさん、時間の問題や」と言いながら看護師を呼んでいました。顎で大きな息をしているSさん。私は、手をさすり、「来たよ」と耳元で伝え、いろいろと楽しく会話したことを思い出しました。感謝の気持ちを伝え、その数分後に息が切れました。90歳を超え、大往生です。もしかして、私が来るのを待っていてくれたのでは?と思いました。介護の仕事についてから、このSさんのように忙しい業務の合間に多くの利用者の方とふれあいの時間を大切にしてきました。認知症があっても、“心のふれあう、その一瞬一瞬をつなげる”そんな時間を大切にして働いています。
今から35年前、私が勤めだした頃から今の時代も、戦争で大変な経験をされた利用者が数多く、入所されていました。何気ない日常の会話の中にも、その悲惨な経験を聴く機会がありました。ある方は、当時は、何も食べるものが無く、乳も出なくなり赤ん坊が栄養が足りず、死んでしまった話を涙ぐんでされていました。
違う方は「空襲の際、上の子の手を引き、もう、片方の手で下の子(赤ん坊)を入れた鍋を抱えて、弾があたっても大丈夫なようにして、裏山に駆け上った」経験を昨日のことのように話してくださいました。また、別の男性利用者は「青春も何もなかった、戦争に振り回された人生だった」と厳しい表情でした。中にはシベリアに11年間も抑留された90代の男性利用者がおられ、家族からは「本人に戦争の話は、しないでほしい」と言われていました。極寒のシベリアで大変悲惨な体験をされたのでしょう。戦争から70数年経っても大きな心の傷を抱えておられたのだと思います。その方の奥様も高齢で、足腰が弱くなり、歩くのも辛そうでしたが毎週、面会に訪れ、かいがいしく旦那様のお世話をされていました。その男性利用者はかなり、認知症が進んでいましたが、奥様が帰られるとなると急にはっきりした声で「駅の階段で転ぶなよ!」「気をつけて帰れよ!」と声をかけられていました。その姿は今でも忘れることはできません。認知症になっても奥様を思う強い気持ちに感動してしまいました。
新しく入所されたり、ショートステイを利用される方は、最初の数日間は、急な環境変化に混乱されます。職員からすれば大勢の利用者の中の一人。しかし、家族の方たちとふれあうことで“この利用者の方は、こんな人生を歩まれていたのか”と感慨深いお話や場面に遭遇することが多々あります。これからも、利用者の方1人1人と向き合って、敬意をもって接し「ここに入所してよかった」と言っていただけるように働いていこうと思います。
家族の絆
(埼玉県 静華(しずか)さん)
花が好きな姑のために、私は四季を通じてパンジー、トルコ桔梗、美女なでしこ、向日葵をはじめ何種類もの花を育てている。今年は数十本の釣り鐘草が咲いた。大きな株に上から下までピンク色の花をつけ、花壇一面に咲き誇る様子は見事だった。
姑は90歳を超える頃から、昼間も居眠りする時間が増えた。その様子を見て、私は少しでも退屈凌ぎにと、干した小豆の鞘だしをしてもらったり、雑巾を縫ってもらったり、座ったままできる作業を手伝ってもらうようにした。姑は大変だと言いながらも、まんざらでもない様子で取り組んでいた。
皐月晴れの午後、退屈そうな姑を見て「お母さん散歩に出かけますか」と声掛けをしてみた。いつでも散歩と言うと、背を伸ばし嬉しそうな笑顔を浮かべるのである。その日も待ってましたとばかりに、器用に車椅子を操り、急くように玄関際まで出て来て、私を待ち構えていた。「マスクをしましたか。帽子は被りましたか。補聴器は大丈夫ですか。携帯電話は持ちましたか」子どもに語り掛けるように事前点検をする。上がり框にスロープを渡し、庭先まで車椅子を移動する。
庭に下りると、姑は花壇の花を見つめて「あれは釣り鐘草かい。随分綺麗だねー。花の前で写真を撮って欲しい」と言うのである。今まで花を褒めても、自分を撮影して欲しいなど言ったことは一度もなかったので、その時は驚いてしまった。姑はピンクの花を背に、しゃんと背を伸ばし、カメラに収まった。
その後は田舎道を車椅子散歩である。その間中姑は野菜の説明をし、種の撒き方から育て方、収穫の時期まで、まるで私に教えるかのように話し続けるのである。
本格的に姑が介護を必要になった時、どうしたら姑が快適で、充実した毎日を送れるのかと、夫と真剣に話し合い、二人で母の介護のための講習会に参加した。介護のテレビ番組を視聴し、介護雑誌も読むように心掛けた。
私たちは面白い話題を見つけては、以前にもまして、母親に語り掛ける時間を作るようにした。一緒に歌を歌おうと姑に題名を尋ねると、常に「川は流れる」と答え、つぶやいているのか歌っているのか、判別のつかない姑の歌声は可愛かった。繰り返し同じ昔話をしながら皆で大笑いしたこともあった。
もしも姑の介護が目前になければ、これほどまでに介護に関心を持たなかったかもしれない。姑を通して介護を学ぶ貴重な機会をいただき、私に「生きること」を真剣に考えさせてくれる時にもなった。
また、18歳の時に家を離れ、殆ど生家に近寄らなかった夫の弟が、高齢の母親を案じて度々足を運ぶようにもなった。義弟は介護の大変さを見聞きし、我々を気遣って我々とも連絡を密にするようにもなった。姑の介護が家族の絆を深めてくれたのである。
姑は93歳目前に突然逝ってしまった。あの時撮った写真が、姑の最後の一枚になった。
明るい曾祖母といつまでも一緒に
(埼玉県 松本さん)
私には104歳の曾祖母がいる。私が小さい頃はよく動いていた曾祖母。トランプやお手玉でよく遊んでくれた。そんな曾祖母が最近元気がなくなった。
曾祖母の朝はまず顔を洗い、きちんとお化粧をして目玉焼きを食べながら新聞を読む。それが最近何もしないで下を向いていることが多くなった。「ばーちゃん」と呼んでも反応がない。耳が遠くなってしまったのだ。日課のお化粧もしなくなった。でも火曜日と金曜日はお化粧をしている。なんでだろうといつも不思議に思っていた。夏休み、その謎が解けた。火曜日と金曜日はヘルパーさんが来る日だったのだ。曾祖母はヘルパーさんが来る日はおしゃれをして待っていた。掃除をしているヘルパーさんに話しかけ、忙しいと思うのにヘルパーさんは仕事が終わると曾祖母が入れたお茶に付き合ってくれていた。曾祖母の表情はなんだか明るい。祖母曰く、曾祖母は人と話すのが大好きらしいのだ。だけど、普段は耳が遠くなり、私も含め家族はあんまり曾祖母と話さなくなってしまった。じゃあどんどん話しかければいいんだと思い話しかけてみたけど、やっぱり耳が遠くて会話にならない。ヘルパーさんはどんなふうに会話をしているんだろ。ヘルパーさんが来る日に観察してみると、曾祖母はひたすら話し続けている。ヘルパーさんはやさしい笑顔でうなずいている。そうか、きっと話しかけられたいのではなく、話を聞いてほしいんだと思った。普段私たち家族は家事をしたり、私は部屋で勉強をしたりとあまりリビングにいて曾祖母の話を聞いている時間がない。「気づかなくてごめんね。でもね、みんなずっと聞いてあげることはできないの。」心の中で呟き、同時に悲しい気持ちになった。曾祖母のためにどうしたらいいんだろう。当番制にして話を聞く?でも家族なのに曾祖母の話し相手を当番制にするのはなんか違うと思う。ヘルパーさんに任せる?それも違う。でもみんなが無理するのも違う。人任せなのも違う。みんなが無理なく楽しく曾祖母とすごすためにはそれぞれがちょっとずつ今とは違う行動をすればいいのではないだろうか。ヘルパーさんが来て曾祖母が楽しく過ごせるならこれを人任せと思うのではなく、週2回の曾祖母の楽しみととらえよう。私たち家族はそれぞれの部屋にこもるのではなく、一緒にテレビを観たり、ご飯をゆっくり食べたり、少しでも曾祖母と一緒に過ごせる時間を自然に作る。
こんな介護の在り方があってもいいのではないだろうか。みんなが今の行動をちょっと変え、ヘルパーさんも頼り、楽しく過ごせる介護。ちょっと考え方を変えれば難しくない。これからも下を向いている曾祖母ではなく、明るい顔の曾祖母でいてほしい。そしてもっともっと長生きをしてほしいと願っている。
面会の時間
(愛知県 うめぼしさん)
私は現在、看護大学の4年生である。2年生のときから、特別養護老人ホームで看護助手としてアルバイトをはじめた。1年間勉強したことを役立てたい、現場でもっと学びたいと思ったからだ。でも、実習にも行ったことのないただの学生の私は何の役にも立てず、毎回アルバイトに行くのが憂鬱だった。特に家族が面会に来ている時間は好きじゃない。面会に時間制限はなく、すぐに帰られる家族はいいのだが、ずっといる家族には面会中に部屋に入り、業務をこなさなければならなかった。部屋はすべて個室なので家族の視線が私に集中している感じがして、利用者と家族と私という空間がどうにも慣れなかった。
そんなこんなでアルバイトをしていた2020年春、新型コロナウイルス感染症拡大防止の為、面会が禁止となり一部を除くすべての面会がオンラインに切り替えられた。特別な場合、面会は認められていたが、時間は10分程度であった。居室に家族がいることもほとんどなくなったので、私は部屋に入ることに気分が楽になった。一方で、家族は入居者に会えないのに、家族でもなんでもない私が当たり前のように会い、話すことのできる現状がもどかしかった。自宅のオンライン環境が整っていない場合、施設の入り口の部屋でオンライン面会が行われていた。「上の階に上がれば会えるのに」毎回そんなことを考え、家族に申し訳なく感じた。
ある日、面会に来た家族に写真を撮ってほしいと頼まれた。その家族は入居者の誕生日のお祝いをしに来ていた。誕生日の主役である入居者は会話や食事をすることは難しいが、家族は誕生日ケーキや画用紙に写真や「誕生日おめでとう」と書かれたメッセージカードを持参していた。面会には時間制限があるため、急いでそれらを準備し掲げ、家族はとびきりの笑顔でピースしていた。そして、カメラで撮った写真を家族へ確認するために見せると、とっても喜んでいた。私はその姿がとても印象的で忘れられない。その時、今までの私の考えはバカげていたと感じた。家族がいないから楽ではなく、当たり前のように入居者と会えることを家族に申し訳ないと思うのでもなく、会えるからこそ自分にはやれることがたくさんあると。私はそれから、少しでも入居者が寂しく思わないように返事が返ってこなくとも、積極的に入居者に声をかけたり、飾ってある写真やメッセージなどが寝たきりの入居者にしっかり見えるように、環境を整えるよう心掛けた。それから数日、先日誕生日の写真を撮った入居者が亡くなった。私は、施設の入り口に立ち、入居者と家族を見送った。
「これからも入居者と家族が安心して過ごせるといいな。」
祖父と呼び出しベル
(東京都 めいらんさん)
「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。」
これは、私が忙しい母に代わって、時折祖父の介護を手伝っていた時期によく聞いていた介護用の呼び出しベルの音だ。癌を患った祖父との時間を少しでも長く過ごすために在宅で介護することが決まってから、必要な時にいつでも祖父の傍に駆けつけられるようにと母が購入したものだ。そのベルを使い始めた当初は、自分の用事と介護がうまく両立できそうに見えた。しかし、その予想とは裏腹に、夜中に私が寝ている時にベルが鳴り、自分の体を無理矢理たたき起こして1階にいる祖父の介護をしたことは今でも鮮明に覚えている。
当時中学生だった私は、祖父の介護をするまで介護というものは自分の子供が結婚した後ぐらいに経験するものだとてっきり思っていた。だが、大好きな祖父とのたくさんの思い出がある私は初めのうちは介護に何ら抵抗もなく祖父との時間を過ごしていた。歯磨き、お風呂や食事などの手伝いをしながらコミュニケーションをとり、大変有意義な時間であった。
しかし、何度かベルに呼び出されていくうちに、私の介護に対してのどこか消極的な気持ちを心の中で感じ始めたのだ。まだ中学生で且つ自己中心的な性格も関係していたかもしれないが、特に夜中に呼ばれた時の抵抗感は一時期強かった。一方で、残り少ない祖父との貴重な時間であるにも関わらず一瞬でもそう感じてしまっていた自分に罪悪感を抱き、さらには祖父の死に対する恐怖や不安などと、様々な感情が葛藤する時期を過ごしていた。
それでも私は大好きな祖父との時間をできる限り笑顔で大切に過ごし、最期まで側にいた。そして、ベルが長時間鳴らなくなってようやく祖父の死を実感した。生まれて初めて大きな壁にぶつかったと感じた時だった。
祖父が亡くなって数年が経ち、現在私は大学生として日々を送っている。そんな中、テレビでよく介護の経済的負担や介護疲れが引き起こす事件など、介護に関わる様々な問題を見聞きする。
高齢化が進む日本ではとりわけ介護は身近な話題だと思われるが、私自身、自分の人生において、今後また誰かを介護する機会があるかもしれないし、自分が介護される立場となるかもしれない。
そこで、過去の私が経験した祖父の介護から言えることは、当たり前な事柄かもしれないが、介護に決して無駄はないということだ。少なからず私にとって、あの頃の自分が精神面で強く成長した背景には、間違いなく介護という経験があったからだと信じている。そして、私には祖父の介護を通して、おしゃれとは言えないあの呼び出しベルの音を通して、祖父とのかけがえのない時間を共有したという一生の思い出がある。
支柱は優しさ
(三重県 九日さん)
宿題をして、母とテレビを見ながらご飯を食べて。そんな「いつも通り」が、母の携帯が鳴る音で断ち切られた。
隣の部屋からうっすら聴こえる母の声。立て付けの悪い扉がガタガタと震え、慌てた声が飛んできて告げられた言葉に唖然とした。
「おばあちゃんが入院するって」
診療時間を過ぎた病院は薄く緑がかっていた。こんな時間に病院に来ることはなかなかない。母の看護師と話している声を聞きながら、寝台に横たわる祖母を見た。下腹部が膨らみ、鼻にはチューブを入れていて話すのもやっとの状態。明るい黄色がチューブから看護師の持つビニール袋に流れ出ている。腸閉塞だそうだ。目を閉じて浅く呼吸する姿に、会うたびにふわふわと朗らかに笑っていた祖母の顔が重なる。目と鼻の間がツンと痛み、喉に塊がつっかえたように感じた。
看護師がストレッチャーを運んでいく。その日は入院の手続きをして、翌日に着替えなどを持っていくことになった。
それから祖母が退院するまで、不定期に病院から電話がかかってきた。このコロナ禍で祖母の見舞いには行けない。祖母も手紙を書ける状況ではないから、入院中はどんな状態になっているかがわからない。そんな中、看護師からの電話だけが祖母の様子を知る手段だった。
電話によると、一時は食事も支えなしで歩行することもできないくらい衰弱したらしい。何も手助けできない状況がすごくもどかしく感じる。
二ヶ月後、祖母は無事自力で歩けるようになり、退院した。久しぶりに会った祖母は好きなものが食べられると言ってふわふわ笑っていた。
入院から退院まで、たくさんの人に助けてもらった。看護師は私たちだけでなくケアマネージャーにも祖母の様子を伝えてくれていたらしい。そしてケアマネージャーはこちらの状況を踏まえた上で、私たちがこれからどれほど祖母の介護に関われるかを把握し、さまざまなサービスを提案、医師との仲立ちにもなってくれた。
今まで要支援1の認定により受けていたケアワーカーや看護師の訪問は、要介護2になったことで週二回になった。車の運転は危ないということと、本人の希望もあって買い物の代行や介護タクシーの利用もできるようになった。
どれも自分たちで調べ、頼むのには限界がある。介護に関わる方や医療従事者の方のおかげで祖母だけでなく私たち家族の負担も減った。
いつ身体が悪くなるかわからない。それは母や私にも、誰にでも言えることだ。いつかは自分が介護する側になるだろうし、される側にもなるだろう。その時に、看護師やケアマネージャー、その他助けてくれた人たちの優しさを思い出して、そのあたたかさを支えにしたい。
表情や行動で表す「コミュニケーション」
(島根県 安食さん)
私にとって介護とは、身体的なケアだけでなくたくさん会話をする「コミュニケーション」が魅力であると考えています。ただ、言葉のキャッチボールであるコミュニケーションだけでなく、表情や行動で表す「コミュニケーション」が介護に良い影響を与えていると思います。
私が「コミュニケーション」が魅力だと感じたのは、高校三年生で行った四日間の施設実習の時です。特別養護老人ホームとデイサービスの施設でそれぞれ二日間実習をやらせていただきました。両方の施設で感じたことは、笑顔で介護をする大切さ、利用者さんの表情を見てすばやく動く大切さです。なかなか、施設に慣れることができず緊張していたら、利用者さんから、
「緊張してる?頑張って。」
と言われました。その時はなぜ緊張していることが分かったのか、私には分かりませんでした。その日の実習日誌の指導者さんからのコメントで「利用者さんは、本当によく私たちのことを見ています。」というコメントがあり、私はやっと理由が分かりました。
しかし、表情を顔に出さないということはすごく難しいことでした。嬉しいことや楽しいことは表情に出して伝えてもよいのですが、困っていることや不安な時にかくすことが大変でした。あまりにも表情に気をとられてしまうと、他のことに手がまわらず迷惑をかけてしまうこともありました。その時、介護士さんの日々の介護はとてもせんさいで、努力の結晶であると思いました。
この実体験から私は、表情や行動で表す「コミュニケーション」がとても介護に良い影響を与えていると感じました。もちろん、言葉のキャッチボールである「コミュニケーション」や身の周りの介助である身体的ケアもとても大切です。その中で一番大切だと思う項目は人それぞれです。私と違う意見や考えの人もいるでしょう。私は、その自分自身の考える介護を大切にしてほしいです。
日々の授業で、先生は「介護方法に正解はない」と言われます。その人一人ひとりの介護方法の最善は、その人にしか分かりません。その人に寄り添ってあげられる人が一人でも増えたら、介護の選択肢が増えると思います。
今からでもコミュニケーションについてもう一度考え、能力をみがいてみませんか。私は、介護のコミュニケーションのあり方について、もう一度考えてみようと思います。そして、介護の現場にたくさんの笑顔があふれることを願っています。