第16回介護作文・フォトコンテスト 結果発表

作文・エッセイ部門

応募数397点

一般部門

最優秀賞

与え、与えられるもの

岡山県 及川志貴さん

 私は現在五二歳の主婦である。四五歳の時に、若年性パーキンソン病を患って以来、少しずつ後退を繰り返して生きてきた。発病当初は、薬さえ飲めば、健常者と何の違いのない生活ができていたので、仕事も普通に行っていた。しかし、次第に手足の振戦、身体の拘縮、体幹の揺れといった症状が現れだし、今は、一桁の足し算もできないといった脳への影響も出てきたため、仕事は辞めざるを得なくなった。
 私の家から車で五分程度のところに、小さなデイサービスができたのがその頃である。
 仕事を辞めて、引きこもりになっていた私の状況を見るに見かねて、友人が見学に行こうと誘ってくれた。定員二五人というこじんまりとした空間、リハビリに特化した現代型のスタイル、そして、笑顔のいいスタッフが揃っていた。ここなら通えそうかなと思い、翌週から私は、利用者の一人になることを決めた。
 私は、健常者だったころ、三十年近く、福祉の相談員をひたすらにしてきた。人を支えることに四半世紀を費やしてきた自分が、人に支えられることになる。最初は、気恥ずかしさがあったが、スタッフの方々の配慮で、そういった思いも消え、いつしか私はデイサービスに通うのが待ち遠しいと思えるようになった。
 私が、利用者になって、四か月目のある日、軽度の認知症のあるFさんが来られた。何度通ってきても、「私はここを初めて利用しますんじゃ」と繰り返し、今したメニューも、次の瞬間には忘れてしまうといった彼女であったが、性格は明るくいつも笑っていた。彼女は私と同じ曜日に、週二回通ってきている。そのうち、片方の日は、利用者が多く活気がある。反対の日は、利用者が五名程度で、皆静かだと感じ取られたようだ。明るくにぎやかなことが好きな彼女は、人数の少ない日に「寂しい、寂しい」と泣き出してしまった。咄嗟のこと、私は「Fさーん」と勢いよく、彼女を抱きしめていた。あったかく包み込むように。それから、私は身を離し「まだ、寂しい?」と尋ねると、Fさんは「もう、寂しくない」と笑った。
 人と人とのつながりというのは、不思議なもので、自分が普段支えられる側であっても、ふとした瞬間に私でも誰かを支える側に回ることができる。また、Fさんの笑顔は素敵だ。彼女はそこにいるだけで、多くの人を和ませる、支え手になっている。これぞ、本当の平等(ノーマライゼーション)だと感じるのだ。
 私にとっての介護とは与え与えられるもの。
 私の病気は進行性なので、これからも、私は日々変わっていくことと思う。しかし、こころだけは、どんなに辛いときであっても、生きているだけでそれが他者への何らかのプラスの影響になることと信じていつつ、前向きに生きていきたい。

優秀賞

共に紡いだメロディー

東京都 後藤さん

「私も弾いてみたいな」
病室でテレビを観ていた姉がふと呟いた。見るとそこには、ストリートピアノで華麗に演奏する若い⼥性の姿が。私は思わず「それなら⼀緒に連弾しよう。」と誘った。姉は⼾惑いつつも「うん。いいりはびりになるかも。」と言ってくれた。そしてこの日から、私たちの挑戦は始まった。
 姉が突然不治の病を宣告されたのは十年前のことだった。全身の筋肉が徐々に衰え、最終的には歩くことや話すこともできず、寝たきりになってしまう残酷な病だ。音楽講師をする傍ら、ピアノの演奏活動も積極的に行っていた姉にとっては、ピアノを弾けなくなってしまうことが何より辛かっただろう。闘病には家族の理解と介護が必要だったが、すっかり塞ぎ込んでしまった姉に、私はかける言葉を失った。だがようやく前向きな気持ちを取り戻してくれたのだ。その想いに応えないわけにはいかなかった。二人で決めた演奏曲は「アヴェマリア」。「どんなに辛く苦しい世の中でも、祈りと信仰の心を持って生きていこう」という力強い歌詞が気に入ったからだ。だが当然、練習は思うように進まなかった。姉の手足にはすでに麻痺が出始めており、焦りや苛立ちが募ることもしばしば。けれども数ヶ月に及ぶ特訓の結果、なんとか最後まで通して弾けるようになった。すると担当看護師の方が、病院内で連弾を披露してみてはと提案してくださった。人前で演奏することに自信はなかったが、姉の生きる希望が少しでも⻑続きすればと思い、やってみることにした。
 本番当日、小児病棟のプレイルームには、予想以上に多くの方々が集まってくださった。緊張は⼀気に高まったが、「今日は演奏を思いきり楽しもう。」と声をかけ、いざ舞台へ。連弾できることに感謝しながら、息を合わせ⼀音⼀音丁寧に音を紡いでいく。その瞬間は病気のことなど忘れ、ただ穏やかな時間だけが流れていた。弾きながら、幼い頃からの姉との思い出や、これまでの練習の日々が甦り、胸が熱くなった。演奏を終えると温かな拍手をいただき、姉の笑顔は誰よりも輝いていた。
 それから五年後、姉は⻑い闘病生活を終えて天国へと旅立ったが、この経験があったからこそ、辛いリハビリも乗り越えることができたのだと思う。素敵な提案をしてくださった看護師さんはじめ、いつも親身に支えてくださった医療スタッフの方々のおかげである。私自身、できないことではなく、できること、やりたいことに目を向け、自分らしく人生を全うするサポートをするのが、幸せな介護のあり方だと学んだ。
 あの日姉と共に奏でたメロディーは、今も心が折れそうになる度、私を慰め励ましてくれる。幽明境を異にしてなお、力をくれる最後の応援歌だ。

優秀賞

輪唱

愛知県 浅野さん

「ポッポッポッ」
⺟の⽿元でささやくように歌うと、⺟も
「ポッポッポッ」と歌う。
私が「ハトポッポッ」と歌うと、⺟の声で
「ハトポッポッ」
と追いかけてくる。一番、心安らぐ時間である。
 ⺟は、九⼗四歳。アルツハイマーという病で寝たっきりになって四年が経つ。はじめの頃は、不自由ながら日常会話は、することが出来た。それが次第に身体が硬直化し、言葉も不自由になって来た。
 隣の家には、幾つものハトの巣があり、⼗数羽のハトが住み着いている。糞で洗濯物が汚されるので、困っていた妻から
「ベランダ一面に網を付けて」
と以前から頼まれていた。私が、ハトよけのネットを張る作業を終え、手を洗いながら、鼻歌で
「ポッポッポッ」
と歌っていると、かすかな声が聞こえて来た。最初は、誰が歌っているのか分からなかったが、声をたどると⺟だった。⺟は、この歌に反応してくれていたのである。奇跡を⾒たように驚き、妻と息子と嫁と孫の四人を集めて、この事件を知らせた。それからは、会話が出来なくなった⺟に、家族全員が
「ポッポッポッ」
と語りかけるが、不思議な事に、⺟は、私の歌う(ポッポッポッ)以外には反応しない。やはり、自分の子である私以外には反応しないのだと、何だか自分が誇らし気分になった。それからは、毎日
「ポッポッポッ」
と⺟と輪唱するのが日課になった。
 ⻑い間、私は、この歌は、リズムもメロディも歌詞も単調だから、⺟は、歌えるものだと思っていた。そして、⺟は、どうして、この歌だけに反応してくれるのか、深く考えもしなかった。
 兄と姉が⺟を⾒舞いに我が家に来た時、その謎は解けた。兄や姉の話によると、⺟は、当時、兄が飼っていたハトに餌を与えながら、この歌を歌っていたという。そして、その⺟の背には、私が負われていたという。
 昔、⺟が歌ってくれた歌を、今度は私が⺟とのコミュニケーションの手段として歌う。
「ポッポッポッ」と。
 ⺟は、私にとって、ただ一人の⺟であり、勝手に、一日も⻑く⻑⽣きしてもらうと決めている。そして、⺟との輪唱を一日でも⻑く続けられることを願っている。

入選

認知症でも忘れないこと

東京都 元気なきのこさん

 母が亡くなる2週間前、私はいつものように朝食を作りに母が寝ている別棟を訪れた。普段なかなか目覚めない母が、その時ぱっちり目を開けた。そして視線を私に向けはっきり言葉を出した。「あんたには最後まで世話になったねえ」当時、会話はすでに成り立たなくなっていた母の、思いがけない口調に驚きながら、「育ててもらったから私がお返しをする番なのよ」と応じると、「いいや、あんたはそれ以上のことをしてくれた。なんとお礼をして良いか分からない」と母は続けた。介護で私が仕事を続けられなかったことを、母は常に申し訳なく思っていたので私は、少しおどけて「あなたの娘は優秀なのよ。だからいつだって社会復帰はできるの」と言った後で、「そうだ。私が幸せでいられるように祈ってね」と付け加えた。「いつでも祈っているよ。」母は同じ言葉を2度繰り返し、再び眠りについてしまった。ほんの一瞬の出来事だった。どんなに認知症が進んでも、母は介護をしているのが私であるという事実を忘れなかったのだ。そのうえ、感謝の気持ちをはっきり私に伝えたのである。これまでの介護の苦労が帳消しになる程の、まるで神様からの贈り物のように思われた。「いつでも祈っているよ」と母が2度繰り返した言葉は、その後、母の亡き後、時に気落ちしがちな私の心にいつも明かりを灯してくれた。

 生け花を教えながら一人暮らしを続けていた母に、認知症らしい症状を私が見出し始めたのは80代の中頃であった。週に3~4回おかずを作って届けるようにしたが、自宅で転んで大腿骨を骨折した時、もう通いで世話をするのは限界に思えた。いつかは兄夫婦が実家に移り住んで自分の世話をしてくれると母は長年信じていた。しかし明言しなくても兄にはその意思はなかった。そう確信した私が、自身が立ち上げた仕事を辞めて自宅に引き取る決意をしたのは、それをしなければ、将来、可哀そうなことをした、と泣き続ける自分の姿が目に浮かんだからだ。

 5年に渡る在宅介護は、自分の心と折り合いをつける戦いでもあった。実際に世話をしたのは私でも、長男である兄に対する母の思いは特別だった。日々、兄夫婦への愚痴を私にこぼしても、年に2度二人が来ると母は喜び、自力で生活できていると話すのだった。

 そばを離れると、私がいたことすら記憶から無くなる程、認知症が進むにつれ、母の世話をしているのが私ではなく兄であると母が思い違いをしようと、もういいと私は覚悟を決めた。母がきれいな花を見て笑顔を見せる、そうした一瞬の幸せを日々どれだけ作れるかが私の毎日の目標となった。

 3年ほど経つと、母は私のことしか話さなくなった。兄が来ても私の話題で終始し、ヘルパーには、「娘が来てくれなくて寂しい」と記憶忘れから訴えても、娘は本当に良くしてくれると感謝の言葉を言い続けた。母が私を信頼し大好きだったのを、私は介護を通して強く認識したのだった。

入選

贈り物

石川県 チヨさん

 私は仕事を辞め、義父の在宅介護を始めた。元々同居していたので、義父と過ごす日々に苦痛はなかった。その中でも、義父の通院の付き添いをした帰りには、必ずランチをするという、私にとっても楽しい時間があった。義父が「今日は何を食べようかね。」と目を輝かせている。メニュー表に目を通すが、大体トンカツ定食か刺身定食になるのである。在宅介護といっても、義父は自分でできることも多かったので、私は少しお手伝いをする程度だった。畑で育てている野菜の収穫、水やりも一緒に行なった。そんな義父との生活の中で、気づかなかったことがたくさん見えてきた。楽しんでいる自分にも、気がついた。
 半年ほど経った頃だろうか、義父にいろいろな症状が出てきた。認知症の症状だった。普段は私たちに対して温和な義父だったが、義母の一言、一言にイライラし、怒るようになった。その反面、「晩御飯、食べたかな?」と聞き返すようになったとき、「さっき食べたよ」と言うと、「そうか、食べとったか」と、笑いながらペロッと舌を出している姿は、子供のようにかわいかった。
 そんな義父ではあったが、症状は日に日に悪化していった。私も、介護の疲れから、体調を崩すようになり、義父は施設に入所することになった。認知症だが、所々しっかりした部分もあったので、入所することを何と説明したら良いのか悩んだ。施設とそれまで通っていたデイサービスを混同していたので、「後でお迎えに来るから、ここで待っていてね」と言うと、すんなり納得してくれた。ほっとした反面、何とも言えない罪悪感に苛まれた。
 そんな時、
「施設に入れたのではないですよ。生活する場所が変わっただけですよ」
と介護士さんに声をかけて頂いたことが、救いになった。
当時は、自由に面会ができたので、頻繁に会いにいった。面会時の義父は、とても穏やかだった。
しかし、一緒に行った義母や夫のことは、少しずつ記憶から消えかかっているようだった。私に、「あの人達、誰や」と小声で尋ねることもあった。
入所して四か月目の冬、肺炎にかかり、入院から三日で旅立っていった。あまりにも、あっけないお別れだった。
 介護をすることで、義父との距離がとても縮まった。物忘れがあった中でも、一番接することの多かった私のことを、最後まで覚えていてくれたことがうれしかったし、私のささやかな自慢だ。
 今日も義父の写真を見ながら、
「じいちゃん、いつも私達のことを見守っていてくれて、ありがとう」
「じいちゃんのひ孫たちも、すくすくと育っているよ」
「じいちゃんの優しさ、強さ、感謝する心、という贈り物を、私も子供や孫に渡していくね。いろいろなことを教えてくれてありがとう

入選

祖母への感謝

奈良県 喜多さん

 10年間という月日を実母に捧げ、懸命に祖母を介護する姿を見てきた。仕事をしている私にとって、平日の介護は母任せ、土日に手伝うとはいっても大したことはできず、祖母の好きな花を見に行ったり、温泉に行ったり、おいしいものを食べたりという特別なものへの援助しかできなくて、ただただ、私がお金を出しているからいいよねと母に甘えていた。車いすを押したり、トイレに行くときやお風呂に入るときの介助を少しする程度で、介護をしているんだと思ってしまっていた自分が情けない。元気だった祖母が少しずつ弱弱しくなり、おしゃべりだった祖母があまり話さなくなり、歌の好きだった祖母が歌わなくなり、いつも笑ってた祖母が無表情になり…。老いとはこういうものなのかと実感した。亡くなる前日、祖母と母と私は一緒に自宅のお風呂に入った。祖母は陽気に童謡を歌い、万歳と手を挙げた。
何の万歳だったのかわからなかったが、母の介護への感謝の気持ちと、頑張りをたたえた万歳だったような気が今ならする。いつも以上ににぎやかで、いつも以上に朗らかで、女三世代の楽しい裸の付き合いだった。湯冷めしないように素早く水滴をふき取り、髪を乾かし、あったかい祖母の体は、ふわふわのお気に入りのパジャマにくるまれて、もこもこしていた。ベッドに横たわり、おやすみとあいさつすると、ありがとね、ありがとうねと何度も言った。
 お礼なんかいらんから、親子なんやからと母は言い、孫なんやからと私が言い、手を合わせる祖母を見守りながら電気を消した。その後祖母は、二度と目を開けることはなかった。

 精一杯の介護をしたはずの母なのに、まだまだいろんなことをしてあげたかったと泣いた。
 あまりにもあっけないお別れに、私も泣いた。朝起こしに行った時の、今までとは違う祖母に驚き、まだぬくもりのある祖母の体に抱きつき、無駄とはわかりつつ人工呼吸をした。医師がきて亡くなったことを告げられても、にこっと笑って起き上がりそうだった。介護とは、何が正しくてどれが正解かはわからないけれど、祖母が亡くなるその瞬間までずっとずっと私たちは笑っていたような気がする。10年前のことなのに、祖母のぬくもりと笑顔が忘れられない。今日も、お仏壇に手を合わせ、祖母のことも祖父のことも父のことも思い出した。
 母が少しづつ、祖母の年齢に近くなるけれど、元気にしてくれていることが嬉しい。私も、祖母の歳まで元気に長生きしたい。

学生部門

最優秀賞

笑顔が呼んだ幸せの時間

山梨県 小池さん

「ひなたはどこだ?」「ひなたはどうした?」それがひいおばあちゃんの口癖でした。
 私の名前はひなたなので、家族から「ひな」と呼ばれています。ひいおばあちゃんもまた、私を赤ちゃんの頃から「ひな」と呼び、かわいがってくれました。心配性で、少し口うるさかったひいおばあちゃんは、祖⺟や⺟と喧嘩をしていたけれど、九⼗五歳を過ぎても⼆階に洗濯物を干しに行くくらい元気で、喧嘩も元気の秘訣だったのかもしれません。
 そんな元気なひいおばあちゃんでしたが、だんだん物忘れが激しくなり会話がかみ合わなくなっていきました。それから一年も経たないうちに、ほとんどの時間を布団の中で過ごすようになり、まるで小さな子供のように、お風呂が嫌、ご飯が嫌とごねるようになりました。そんな我が家に毎日のように響くのは「我儘言わないで!」、「いい加減にして!」という祖⺟と⺟の怒声。地獄のような時間でした。しかし、そんな状態のひいおばあちゃんを家でお世話する大変さや、イライラする大人達の気持ちは私にもよくわかりました。
 家の空気は常に重く、ギスギス。しかし、そんな空気が一掃される時間がありました。それは、ひいおばあちゃんが私とお話をしている時間でした。私がおばあちゃんの部屋を訪ねると、毎度毎度「どこの娘だよ?」と言われました。ひいおばあちゃんの中の「ひな」はずっと小さな頃の私だったのでしょう。けれど「ひなだよ」と言うと、ひいおばあちゃんは「ああ、ひなか」と、とても嬉しそうな笑顔になりました。会話は、同じ昔話の繰り返し。かと思えば、急に口うるさく小言を言いだしたりと、ジェットコースターのようでした。けれど、おばあちゃんはそれを大真面目にに、そしてとても嬉しそうに話すものだから、私は思わず笑ってしまいました。その様子を⾒ていた祖⺟や⺟もつられて笑い出し、それが嬉しかったのか、ひいおばあちゃんはいつも以上にニコニコになりました。笑顔が笑顔を呼んでくれたそんな時間が、私はとても好きでした。
 ひいおばあちゃんは私が中一の時、百歳ので旅立ちました。私の胸に残ったのは、もっとたくさんお話する時間を作ればよかったという後悔、けれど、そんな私に、⺟は言ってくれました。「ひなが作ってくれたあの時間に本当に救われていたよ。ありがとう」と。その言葉に、嬉しさと寂しさが入り混じった感情が生まれ、涙が止まりませんでした。当時の私は、子供の私にできる事なんて何もないと思っていました。けれど、介護には子供も大人も関係ないのかもしれません。
 介護はするのもされるのも大変です。けれど、地獄のような時間の中でも、笑顔は笑顔を呼んで、私たちに幸せな時間をくれました。笑顔は本当に偉大です。それを経験させてくれたひいおばあちゃんに、私は感謝しています。今日も空の上で、ひいおばあちゃんが笑顔でいてくれたらいいな。そう思う毎日です。

奨励賞

美味しいものが食べれますように。

岡山県 松本さん

「もう帰りなさい。」病院独特の匂いが漂う中、絶食で痩せ細り寝たきりの祖⺟は私と⺟にこう言った。決してもういて欲しくない、早く帰って欲しい、そんな意味ではなかった。昔から⼈に迷惑をかけることが嫌いな祖⺟。「私のことなんかいいから」が⼝癖な祖⺟。上⼿く言葉を発することすら困難な⼝で言ったその⼀言は祖⺟の優しさだった。祖⺟の持病が悪化し、施設や病院で暮らすようになった頃、⺟は祖⺟を介護するようになった。コロナで面会も厳しい中、数十分間だけの限られた面会に行き、私たち兄弟の話や写真を見せ続けてくれた。施設では洗濯が行えないため家から着替えを持っていくのと引き換えに着た服を持って帰る。常に家との往復を繰り返していた。そんな生活をしている中、美味しいものを食べるのが⼤好きで、よく⼀緒に美味しいトンカツを食べに連れて行ってくれた祖⺟は美味しいものが食べたいと訴えていた。⺟はこっそり食べさせてあげようかと思いながらも、預かってもらい祖⺟の病気に合った食事を与えてもらっている以上、勝⼿なことは出来ないと「これが治ったらね、あれがよくなったらね」と言い聞かせ、食べさせてあげたい気持ちを無理やり封印していた。しかし病気はそんな二⼈の気持ちなんかお構いなしに祖⺟から食べられるものを次々に奪っていき、初めは⼿の痺れから始まったものの、年月が流れ医師から「最終ステージです」と告げられた時には絶食状態で、あとは最期を待つだけという状況下に置かれていた。祖⺟はもう既に⼤好きだった抹茶のアイスは食べられなくなっていた。四月四⽇の明け⽅、祖⺟は息を引き取った。桜の季節だった。私は⼩さい頃、毎年春に祖⺟とお花見をするのが恒例で、そこに売っているエビフライを桜の⽊の下で食べるのがお決まりのコースだった。しかしそんな祖⺟はもういない。⺟はずっと約束していた抹茶のアイスを食べさせてあげられなかったことを悔やんでいた。葬式の⽇が決まった。⺟は通夜と葬式の二⽇間はそのまま葬儀屋に泊まることになっており、私達は⼀度家に帰り、合流することになった。葬式の⽇の朝、私は車の中で保冷バックを抱えていた。約束の抹茶のアイス。祖⺟に食べさせてあげたい気持ちに加え、⺟の願いを叶えてあげたい気持ちが⼤きかった。葬儀会場に着き、私達家族と祖⺟しかいない空間でそっと棺桶の蓋を開け、祖⺟の唇に抹茶のアイスを付けた。もちろん祖⺟は食べられないし表情⼀つ変わらないのは当たり前だが、何だか幸せそうな感じがした。それから数週間経ち、私と⺟は祖⺟の家の⽚付けに行った。部屋の壁には⺟の幼少期の写真や、私達兄弟が書いた⼿紙や沢⼭の絵、年賀状が丁寧に飾られていた。そんな中、⺟が飾ったであろう祖⺟の七⼣の作品が飾られていた。“美味しいものが食べれますように。”ちゃんとお願い事叶ったね、おばあちゃん。

奨励賞

幸せな時間

熊本県 古江さん

「ありがとうねえ」
105歳だった曾祖⺟は、よくこの⾔葉を⾔っていた。看護師さんやヘルパーさんがお世話をしてくれた時、⺟が⽣けたお花を⾒せた時、僕が折り紙を折ってあげた時。曾祖⺟の「ありがとう」は誰に対しても優しく、みんなの心をおだやかにしてくれた。
 数年前から、曾祖⺟は施設で暮らしていた。始めはみんな心配していたが、優しい施設のみなさんに囲まれ、楽しく過ごせているようで安心した。コロナで面会ができなくなった時は、窓越しで元気な姿を⾒せてくれていた
 昨年の7月、施設のほうから、そろそろお家へ帰ったほうがいいかもしれないと提案された。前から、曾祖⺟の最期は⾃宅でというのが家族の願いだった。⾃宅に帰ってくるにあたって、曾祖⺟の娘たちである僕の⽗の叔⺟たち四⼈が、⼀緒に住んで介護することになった。介護と聞いて、食事やトイレやお風呂など身の回りのこと、急に具合が悪くなったときのことなど、不安や大変そうなイメージしかなかった。
 もうそんなに⻑くないのかな、と心配していたが、家に帰ってきた曾祖⺟は、大好きなおそばやウナギを「おいしいねえ、おいしいねえ」と⾔いながらもりもり食べて、みんなを驚かせた。⼀日二回訪問看護師さんが来て健康観察をしたり、身体をきれいに拭いてくれたりした。かかりつけの病院の先⽣とも連携して、往診に来てくれた。先⽣や看護師さんが来たときはいつも嬉しそうに⼿を握って「ありがとう」と⾔っていた。曾祖⺟の⾔葉にみんな笑顔になった。
 ある日、⾒なれない大きな車がきた。移動入浴車というものだった。介護用の浴そうを家の部屋で組み立ててお湯をため、寝たままお風呂に入れてくれるサービスだ。お風呂に入れることが難しくなった曾祖⺟のために、叔⺟たちが頼んだのだった。久しぶりのお風呂はとても気持ちよさそうだった。ちょうど夏休みだったので、僕も買い物を⼿伝ったりした。レトルトの介護食という便利な物が売ってあることも初めて知った。かまずに食べられる肉じゃがをおいしそうに食べていた。
 覚悟してむかえた⾃宅介護も4か月をすぎようとしていた。叔⺟たちも疲れがたまっていたに違いなかった。だけど、「こんな風にお⺟さんや姉妹みんなと⼀緒に過ごす時間があって、とっても幸せ」と⾔っていた。幸せという⾔葉が心に響いた。
 このまま年越ししちゃうかもねーと話していた十二月の始め、家族みんなに⾒守られて曾祖⺟は静かに亡くなった。⼀緒に晩ごはんを食べたこと、いつもジュースをくれたことお庭の花がきれいだと喜んでいたこと、いつもみんなのことを心配してくれていたこと、みんなに幸せな時間をくれたこと。「ありがとうね。おばあちゃん。」

奨励賞

介護をもっと身近に

熊本県 紫垣さん

「介護」と聞いて一般的に頭に思い浮かぶのは、専門の資格をもった人が高齢者の日常を豊かにするためにしている仕事だ。食事の世話や着替え、入浴や排泄等の介助、福祉施設や病院でのレクリエーション、また、同居高齢者家族の身の回りの世和を思い浮かべる。そう考えると現在、高齢者と同居していない中学生の私は、専門の知識もないため、介護で役に立てる気持ちがしない。とはいうものの何もできないというのも、もどかしく思い、電話で日常から会話している、他県に住む九⼗五才の曾祖⺟に、「私ができる介護ってあるかな?」と率直にたずねてみた。すると意外な返事が返ってきた。
「あなたは、介護していますよ、ばあばの脳ミソの介護をね。冗談抜きで、あなたが生まれたことで、私の健康寿命が⼗年以上延びています。小学校入学までみられたらいいなと生まれた時は思っていたのに、今では欲が出て大学卒業まで見届ける予定ですよ。頭も若返っていますよ。携帯電話も始めたしね。」
そういって嬉しそうに電話の向こうで笑っていた。確かに、曾祖⺟は気持ちが若い。時々話していて九⼗五才ということを忘れている。一人暮らしの曾祖⺟は、今年から携帯電話を使い始めた。通っているデイサービスで、他の高齢者の使い方を盗み見して、自分にもできそうな気がしたそうだ。使い方がわからない時は、家の電話から孫の⺟か、ひ孫の私に連絡してきて操作方法を確認してくる。数日の帰省時も、わからないことを直接会って聞く準備をしている。学ぶ意欲がとても強い。曾祖⺟とは、時々、電話や⼿紙で近況報告している。最近の話題だけではなく、曾祖⺟の⼗代の頃の話や亡くなった曾祖⽗との出会いについても聞いたことがある。冗談を交えながらの楽しい女子トークだ。そんなコミュニケーションをすることが、脳ミソの介護だと曾祖⺟は、⾔うのだ。自分が介護している自覚なんてなかったため、そう⾔われて、介護が意外と簡単に身近にできるものだと分かった。
 市内に住む⼋⼗代の祖⽗⺟と会う時、ボードゲームやトランプをよくしている。久しぶりに会うと、ルールの記憶が曖昧になっているが、皆で思い出しながら間違えても一緒に笑って楽しんでいる。これも曾祖⺟と同様に「⼼の介護」になるのではないかと思った。そして、それは高齢者側だけではなく、私にとっても、日常の中にある高齢者との時間を共有するという関わり方は、世代が違う家族と楽しく寄り添う気持ちを育ててくれ、同世代では学べない知恵を与えてくれている。
 高齢者の⺟親の介護のことを、介護とはあえて⾔わず「恩返し」とラジオで表現する芸人さんがいた。そう捉えると介護は、より身近になると感じた。

奨励賞

尊厳を守るということ

兵庫県 清水さん

 施設ボランティアや実習で、高齢の方と接する機会が増えました。認知症の方と接する際に、幼い子供の様に感じてしまった事があります。
 身体的な不自由はないのに、食事を食べさせてほしいと言われたり、体を寄せて来られたり手をつないでこられる事も多く、そんな瞬間にまるで子供の様に見えてしまっていました。
 その時の自分はまだ未熟で、そんな方々に対して、「可愛い」などと思っていました。
 福祉科に入学し実習の中で、利用者の方の、昔の写真とその方の経歴を見る機会がありました。今は、人形を抱きニコニコと常に笑顔で私と手をつないで歩いておられたその方が、とても凛とした表情で教壇に立っておられる姿でした。髪をきつく一つに結って厳格な雰囲気で、今のその方から想像の出来なかった姿にとても驚き、またショックでした。
 そして私は、ハッとしたと同時に自分の心の在り方を大きく反省しました。
 認知症になり、自分で出来ることも少なくなってしまったその方にも、他の多くの高齢の方にも、それぞれの生きてこられた人生があります。多くの経験をしてこられた大先輩です。それを頭では理解していたつもりでいたのに、実際に写真を見た事で大きく刺さった気がしました。
 自分の両親や祖⽗⺟が、認知症になってしまい施設にお世話になる⽇が来たとして、その時にまるで子供の様に扱われている姿を見たら、どんな気持ちになるだろう。もしも自分がその立場になった時にその様な扱いをされたら。と考えるとどんどん悲しく感じました。
 高校で福祉について学ぶ中で「尊厳」という言葉をよく目にします。
 一人の人間として尊重されている状態の事をいいます。その人の人格を尊重しその方らしく生きる事を大切にするべき。という事です。利用者本人さんはもちろん、ご家族にとってもそれはとても大きな事だと思います。
 認知症の方は、まだ何も知らず経験のない赤ちゃんや子供と違い、病気などの症状により能力が低下しているだけなのです。
 私はもっともっと、福祉、医療や心理についても学び、体験する事で目の前のその方の見え方にとらわれずに、もっと広い角度から見られる様になりたいと思いました。

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第16回 介護作文・フォトコンテスト事務局
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