見つけた、介護の魅力、喜び 第18回介護作文・フォトコンテスト 結果発表見つけた、介護の魅力、喜び 第18回介護作文・フォトコンテスト 結果発表

作文・エッセイ部門

応募数
一般の部 348点
高校生以下の部 358点
ケアニンショートフィルム感想文の部 152点

一般の部

最優秀賞

思い出が心を満たす

京都府 奥村さん

 もう、七十八才。この歳になると失うものが増えてくる。長年連れ添った夫は七年前に他界、娘も忙しくてあまり帰ってこない。
 体にもガタがきた。去年の八月、散歩中に転倒して右手首を骨折、今年も転けて前歯が八本折れた。座骨神経痛で腰や足が痛い。
 以前は人付き合いが面倒だったが今は違う。誰かと話したい、食事がしたい、一緒に買物に行きたい、と人のぬくもりを求めている。
 ひとり暮らしは心細い。いつまで自立した生活ができるのか。見えない先行きに悩む私の頭に、ふと、彼女の姿が浮かんできた。
 それは二十数年前、ホームヘルパーをしていた頃だ。訪問先の利用者さんに知らないことを教えてもらったり、オムツ交換をすると「気持ちがよくなったよ」と笑顔で喜んでくれたりなど、やりがいのある仕事だった。
 だが、ひとりだけ苦手な人がいた。当時、七十代の女性だ。彼女はリウマチを患っていたが、息子さんとの同居を頑固に拒む気丈な人だった。ヘルパーの私に対する風当たりも強く、対応に四苦八苦したので忘れられない。
 ある日、訪問時間の三時直前に用事が入り、ギリギリ到着。時計を見ると三時だったので、「ぴったりですね」と言ったら「十分前にきて準備するもんや」と私を睨みつける。
 黙りこんでいる彼女を明るくしたくて声をかけていたら、後で事務所に「奥村さんはペラペラ喋ってうるさい」と苦情が入った。
 食卓を拭き終えると「コップやメガネの位置がずれている。元にもどして」と注意されたこともある。文句ばかり言う彼女にムカついて、素っ気ない態度をしたこともあったな。
 でも、今なら彼女の気持ちがよく分かる。訪問時間を守るより、一分でも早くきて欲しいと私を待っていてくれたのだ。
 体調が悪い時は長く話しかけられると辛い。リウマチで関節が強張っている手は、食卓に置く場所が少しでも遠いと掴めない。
 きつい言葉を放ったのも「私の苦しみを知って」という切ない心の叫びだったんだ。
 ああ、どうして体が思うように動かせないもどかしさに気がつかなかったのか。どんなことも穏やかに受け入れたらよかったのに、顔をしかめていた自分を深く反省した。
 こうして彼女といろいろあった思い出に浸っていると、同じ年代になった私はあれもこれもと共感できる。一日中ひとりで寂しかったんだ。誰かに本音を言いたかっただろうな。
 それでも彼女は全身の痛みに耐え、息子に頼ることもなく自分の力で毎日を過ごしていた。そんな彼女の強さが今の私を支えている。弱い心に励ましの光を差し込んでくれたおかげで、生きる勇気が湧いてきた。
 振り返れば、人生の先輩である利用者さんたちから大切なことをいっぱい学んできた。ヘルパーの仕事をさせてもらって本当によかったな、としみじみ思うこのごろだ。

優秀賞

介護とひとすじの光

熊本県 柴田さん

「ゆうこ、ゆうこは大好きな人の名前」
 この言葉は今でも私の心をあたたかくする。平成十四年十二月二十七日、享年九十五才ばあちゃんは旅立った。
 私はばあちゃん子。商売をしていた両親の代わりに、ばあちゃんが育ててくれた様なものだ。プライドの高いばあちゃんは、いつもツンとした顔で髪を結い、着物を着て、田舎者とは付き合いませんといった顔で、周囲とはあまり馴染まない性格でした。母にも厳しく頑固。母も苦労した事でしょう。そんなばあちゃんが唯一甘いのは、孫である私に対してだけ。厳しく頑固。それはばあちゃんの一面に過ぎず、豊かな愛情を持つ強く優しい人。どんな私も、まるごと受け入れてくれた。毎日の日課であった夕方の散歩は、ばあちゃんの好きな蘇州夜曲を一緒に口ずさんだ。
 君がむねに、だかれて聞くわ、夢の船唄鳥の歌ー。今も夕やけを見るたびに思い出す宝物のような日々。
 そんな私も大人になり、結婚、出産を経験し、母となった。長男を生んだ事で、「宝だね、宝を産んだね。よくやった」と心から喜んでくれた。
 しかしその頃、ばあちゃんには認知症の症状が出始めていた。私は実家を出ていたけれど、毎日ばあちゃんの元へと通った。「ばあちゃん、おはよう」「早いねぇ、お茶飲む?」そんな何気ない会話を一つ一つ心に留めた。これから変わっていくであろう、ばあちゃんを、まるごと受け入れる為に、一瞬一瞬を大切にしようと。月日と共にばあちゃんの症状も進んでいった。食事、排せつ、入浴、日々当たり前に出来た事が徐々に理解できなくなっていく。身近な人、とりわけ家族の介護は本当に忍耐が必要だった。変わりゆくばあちゃんを前に、悲しく、辛く、時には苛立ちさえ覚えた。ばあちゃんが子供になる時、私は母となり、震える背中を抱きしめた。プライドの高いばあちゃんになる時、私は孫になる。そんな日々を繰り返しながら、すっかり私の事を忘れた頃、感染症により熱を出したばあちゃんが入院する事になった。日毎弱っていくばあちゃん。食事も摂れなくなり眠る時間が多くなった。そんなある日、いつもの様に面会へ向かう日の空は、私の心を写す様に分厚い雲が太陽を隠していた。眠るばあちゃんに「ばあちゃん、ゆうこだよ」とそっと声をかけた。その瞬間、窓からやわらかな光がさし、ばあちゃんの顔を優しく照らした。静かに目を開き、「ゆうこ、ゆうこは大好きな人の名前」そう言って微えんだ。「そうですか、大好きな人の名前ですか」涙がとめどなく溢れ、ひとすじの光に照らされたばあちゃんの頬を私は優しくなでた。人の心の奥深く、魂で優しさや愛情を覚えているのだと感じた。感謝ばかりの日々でした。奇跡をありがとう。あの曲を口ずさみ空を見上げる。

優秀賞

介護が教えてくれたこと

埼玉県 深田 観さん

 父の病気が発覚したあの日、三十二歳にもなるというのに私は大声で泣きじゃくった。突然の知らせに戸惑い、頭の中がまっ白になった。父はいつも笑顔で家族を支えてくれていたのに、その笑顔がもう見られなくなるのかと想像しただけで、涙が止まらなかった。心の中では不安と悲しみが入り混じり、ただただシクシクと泣き続けた。
 しかし、そんな私を見て姉は静かにこう言った。「お母さんの時みたいに突然亡くなるよりもさ、こうやって一緒に過ごせる時間があるだけでも幸せじゃない?」その言葉は、私の心に深く響いた。私は幼い頃突如として母を亡くしていた。そして、ああしてやれば、こうしてやればよかったと深く後悔した事を思い出した。だから今度は、父と一緒に過ごせる今この瞬間を大切にしたいと思った。その思いから私は父の介護を好意的に取り組むようにした。
 しかし介護は決して楽なものではなかった。抗ガン剤で冷たい物が触れなくなった。代わりに私が父の手となった。足腰が弱り一人で立てなくなった。姉と交替で車イスを押した。同時にお風呂に入れなくなった。介護職を十年経験した姉が入れてあげて、私が身体を丁寧に洗った。身体の自由がきかなくなるにつれ、私達にもできることは限られていった。父も自分でできないことが増えたもどかしさにイライラが募ったのか、たった一度だけ「だからそうじゃなかろうが!」と怒鳴ったことがある。私がごめんなさいと謝ると父は何かに気づいたようにはっとして、自室に籠っては一人で反省しているようだった。私は父の気持ちが痛いほど伝わって胸が締め付けられる思いだった。だから私は少しでも父が平穏に過ごせるように、毎日たわいもない話をした。天気や幼い頃の思い出や大好きな物など、介護をする中で些細なことでも父と共有することが私にとっての幸せになった。
 それから三カ月、父が亡くなった時、不思議と悲しみは感じなかった。父と向き合って精一杯できることはやれたおかげだと思う。その代わりに“お父さん、今までよく頑張ってくれたね”と私達姉妹は父を讃え“最期まで一生懸命生きてくれてありがとう”と父に深く感謝した。
 この経験を通じて気づいたことがある。介護は決して苦しいだけのものではなく、そこに幸せや絆もあるということだ。父の介護をきっかけに私達家族はお互いを思いやり、絆を深めることができたと思う。たとえ最期が悲しい別れであったとしても、その過程で得た思い出は何物にも代えがたい宝物だと感じている。父の笑顔は、今もなお私達の心の中で輝き続けている。

入選

ケアマネ、二児の母、それから時々娘。

青森県 こだまさん

 介護歴十二年、去年ケアマネージャーとなり、私生活では二児の母親。時々実家に行っては娘となる。それが私だ。
 四年前、おしゃべりが大好きだった母が癌で倒れた。しっかり意思疎通が出来て交わした言葉は「自分の子どもを一番に考えるんだよ」だった。その時私は妊娠していた。手術を終えた母はしばらくすると鬱病になった。包丁を自身に突き刺そうとしたり、漂白剤を飲もうとしたこと。おぼつかない足取りのはずが、急に一人で家を飛び出そうとしたこともあった。兄弟や母の姪など、夜は泊まり込みで見守った。出産を控えていた私の代わりに夫が行ってくれた。そんな私も、妊娠中に一度だけ受診に付き添ったことがあった。介護に慣れていなかった父が、車椅子から車に移動させようとした際、半身麻痺の母が転倒しかけたため、私が抱き上げようとすると、「駄目!止めて!!」と悲鳴をあげたのだ。お腹の子に何かあってはいけないと、私の助けを拒絶した。身体が衰え、言葉が話せなくなっても、孫のことをよく見ており、少しでも危険な動きをすると、指をさして教えてくれた。どんな状況でも、母は母だった。
 母の役に立ちたいと、産後一生懸命勉強し、ケアマネージャーになることが出来た。しかし、仕事と子育てで手一杯で、実家に行くことはなかなか出来なかった。たまに行ってはトイレ、入浴、食事介助。トイレは狭く、介護出来るような設備は整っていなかった。普段の状態を見れていないため、仕事の介護よりも難しく感じ、毎回手探り状態だった。そんな中で、毎日母の傍で介護してくれた、父と姉には感謝。
 今年の一月、突然癌治療が打ち切りとなった。涙が止まらなかった。その場で話を聞いていた母は理解しているのか。泣いている私をどう思っているのだろう。そう考えるとますます涙が止まらなかった。
 そこからはあっという間だった。でも長い時間で何とも言い難い時間だった。息を引きとる前日には、膨れ上がった母のパンパンの温かい手を握りながら、座ったまま眠りについた。子どもがいない夜だったから、久し振りに娘に戻れた気がした。母が息を引きとって、こんな世界があるのかと信じられなかった。母の思い出を振り返る度に涙はあふれ、毎日自分の子どもに心配された。お通夜の後、「ばぁば、美味しいものありがとう。そう言って笑ってたよ。僕にはそう見えたよ。お母さんには見えないの?ありがとうって言ってるよ」そう言われた。その言葉で、いつまでもこうしてはいられないと思った。子どもを一番に考えると、母と約束をしたから。
 ケアマネージャー、二児の母親、時々お母さんの娘。どの私も、お母さんがつくってくれた私だ。
 お母さん、産んでくれてありがとう。

入選

これからも、お願いね

東京都 畝本さん

「自分のことは自分で。親の元気は一番の子ども孝行なのよ」娘に良く言われる。夫の大動脈かい離の術後は老夫婦でなんとか暮らしている。ケンカもするが、互いに介護したりされたりである。
 野菜を育てるのは二人とも大好き。今、畑仕事は二人で半人前になった。この春も楽しみに待っていた。
 が、夫は急変した。足が腫れて歩けない。ゾウの足のようにパンパンに。表情は暗く、食欲はない。私の介護では手におえない。私も暗い谷間に落ちていきそうだ。
 近くに居る長女に言おうかと迷っていた。なぜか、夕方、娘はウルトラマンのように、突然現れた。夫を見るなり顔色一つ変えず、「まあ、足が腫れたのね。平気、平気よ」軟膏を塗って足をさすっている。次の日、医療用のくつ下をはかせた。杖も用意した。
「いい。今までできたことができないのはあたり前なの。今できることを楽しみな」
 娘は仕事の合間にケアマネさんと相談していた。すぐに、訪問マッサージを受けることになった。一番に喜んだのは夫である。
 次の大学病院への付添いは娘になった。私は留守番でのんびりと。娘は帰るなり、一言、「婆さん、覚悟する時がきたよ」
前回、私への説明と同じで投薬治療で、主治医は再手術をにごした。
 そうしていると、次のウルトラマンが来た。次女は看護士、訪問治療にする。月二回、医師の巡回を受け、大学病院と連携して、通院はなし。年一度の精密検査のみ。安心できる。
 その後、長女は仕事帰りに寄る。親子で会話が続く。娘は夫の気持ちや考えてることを一つずつ聞いては方向づけを助ける。
「どっちがいいかな。再手術もありよ」
「でも、前のようにいかないかも。体力が」
「病院での退屈はシンドイ」
「そう、嫌だね。爺さん、入院は嫌いよね。このままでも大好きなカラオケ教室にも、友達との食事会にも行けるよ」
「うん。大丈夫だよ。まかして、行くよ」
 隣りで孫娘が爺さんも夜遊びするのと笑う。
 どうも、私の介護の仕方と違うようだ。娘達は延命第一より、最後まで寝たきりにならず、一日を楽しくすごして欲しいようだ。介護するほうも笑って生きている親をサポートしたいとのこと、なるほどと思う。
 願わくば、私も夫もそれにこしたことない。自分の最後ぐらいは自分でと思ってきたが、もうそうはいかない。二人のウルトラマンに助けてもらっている。孫娘達もよく、食事に誘ってくれる。憘しいの一言、美味しい。
 足の腫れも少しだが良くなり、夫は庭先で日曜大工らしきものを楽しそうに作っている。私は古着のリフォームをしては喜んでいる。
 一日がとても早い。一年はもっと早い。一生はどうかな。早いかな。

入選

もう少し介護したかった

青森県 對馬さん

『悪性脳腫瘍』妻に告げられた突然の病名。この日から三年間「覚悟」の日々でした。雪かきで突然右手に衝撃が走り、倒れた末の診断でした。折しも「コロナ禍」真只中、手術はおろか入院さえもままならない時期のこと。幸運なことに手術も入院も可能なこととなり先ずはひと安心。この時のことを詩作が趣味の妻は、『突然の病気見つかり驚きぬ、こんな時期手術できる幸せ』と書いている。これが妻の最後の文となった。
 術後、右手足・記憶・目・言語等に後遺症が残ることがあらかじめ聞かされていたが「生きる」を最優先し手術を選択。私は残り少ないであろう妻の人生を二人で過ごそうと、妻の退院に合わせて勤めを辞めた。併せて自宅を障がい者用に改修した。
 退院と同時に車椅子と介護用ベッド等との生活が始まった。初めのうちは手足の不自由だけで済んだが、次第に色々な困難が増えてきた。悪いことにそれまで長い間介護してきた父(妻の義父)が亡くなり、それが妻へ「うつ病」をもたらし、二ケ月程は精神状態が不安定な日が続いた。「うつ病」の危険な時期が過ぎると穏やかな時間が流れた。一緒に車椅子で散歩したり、ドライブしたり、買い物をしたりと、やさしい日常が増えてきた。
 車椅子での生活になってからは、炊事・洗濯・掃除等々家事一切は私の日常となったが、毎日妻と二人で過ごせることは、不思議と『ひと時の幸せ』でもあった。月に数度の病院通いも苦痛ではなかった。さすがに入浴は難しいので、ディサービスも数回利用することにした。妻も行事等楽しんでいたようだ。次第に後遺症も重くなっていった。同時に介護の内容も難しくなる。訪問看護も利用したが、自宅での介護が主で、手足の自由も次第にきつくなり、トイレや排泄、衣服の着替え、洗願歯磨き、食事も全介助が必要となってきた。更に言葉も声も出せなくなり、意思の疎通ができにくくなっていった。それでも介護ができていることの幸せを感じながら妻と一緒に過ごしている私がいた。
 妻にとって最後となった今年の正月は子供たちの家族と一緒の賑やかな日となった。その一週間後急に食事が困難になり、更に一週間後全く食事ができなくなり、看護ケア病棟へ緊急入院。一ケ月入院後、「点滴」と「痰取り」が頻繁に必要な状態では自宅での介護は無理と判断し、緩和ケアの施設へ入所させた。施設への入所は、妻が自分でできた最後の意思表示(目の瞬きと頷き)であった。家族への負担を少しでも減らしたかったのだろう。一ケ月程の利用の末、妻は還らぬ人となった。最後は意識もほとんどなかったが、妻は最後まで身内や家族に見守られ「幸せ」だったに違いない。
『介護』する人、される人。お互い最大の信頼関係で結ばれていたと信じているが、「もっとできることがあったのでは」と今も後悔の念は残る。『もう少し介護したかった』

高校生以下の部

最優秀賞

記憶の中の笑顔

鹿児島県 濵田さん

 祖母が認知症と診断されたのは私が小学五年のときだ。福岡に帰省した際、母が祖母に異変を感じ、病院に連れて行ったのだ。鹿児島に戻ってからも、私たちは認知症について調べ、認知症には五つの段階があり、祖母は三段階目にあたるとわかった。薬を飲めば進行を遅らせることができるが、完全には治せない。しかも、祖母は薬を飲んだことすらすぐに忘れてしまうのである。
 今年の夏、祖母の症状が進んでいることを覚悟して帰省したはずだった私たちだが、想像以上の状況に立ち尽くしてしまった。テレビは爆音、テーブルには生活用品が何十個も積み上げられ、冷蔵庫は同じ野菜ばかりが入っている。まるで違う家に来たようで、「どうしておばあちゃんがこんなことに……」と、その日はショックで、なかなか眠れなかった。しかし、私以上にショックを受けていたのは母だったに違いない。祖母は何回も同じ質問を繰り返す。私が根気強く、祖母に何度も同じ言葉を伝える様子を見ながら、母は苦しそうに顔をゆがめていた。もし、母が認知症になってしまったら、私もどれだけ辛いだろう。悩みすぎた母が体を壊してしまわないだろうかと、心配になってきた。
 ある日母が「これ読んで。」と私に手紙を渡してきた。そこには母が祖母に伝えたい気持ちがまっすぐに書かれていた。
「お母さんへ。私のことまだわかる?私はあなたの娘。小さいころ、遠足のとき、泣いたとき、疲れて帰ったとき、あなたが作ってくれたおむすびが大好きだったよ。あなたの笑顔と優しい声が、ずっと私の心の中に残っています。覚えていますか?私が東京に進学すると突然決めたときのこと。何の相談もしないまま報告したのに、驚くことも怒ることもなく『いいじゃない、あなたがきめたなら。』と応援してくれました。私を信じて支えてくれました。本当に感謝しています。今、あなたの手を握りながら、あなたを見つめて話しているよ。あなたは同じことを何度聞いてもいいの。私はそのたび、答えます。あなたが忘れてしまっても、私は覚えています。あなたが私を大切に育ててくれたことを。どうか安心して。あなたは一人じゃないよ。私も、私の娘たちもずっとそばにいるから。大好きだよ。お母さん。あなたの娘より。」
 母に代わって、声に出してその手紙を読んだ私の顔をじっと見つめて、祖母は「ありがとう」とつぶやいた。私は、母の思いがちゃんと祖母に届いたと思った。
 祖母は、母の子供時代などはよく覚えているが、一時間前のことはすぐ忘れてしまう。祖母に同じ質問をされると、正直疲れてしまうこともあるが、私はしっかり答えていこうと思う。伝えたい気持ちは、きっと届くと信じて。祖母にずっと笑っていてほしいし、母にも安心してほしい。祖母と母を支えたい。

奨励賞

あの日の約束

兵庫県 平井さん

「折り紙は?」そう言って私と初日に交わした約束を覚えてくれていた利用者の方がおられた。
 私が通っている高校は、福祉科と看護科が設置されている。福祉科では福祉の専門的な知識や技術を学び、一年生から施設実習が始まる。養護老人ホーム、デイサービス等に行き現場での介護技術を学んだり、コミュニケーションを取ることはもちろん、利用者の方とぬりえやゲームなどをすることもある。利用者一人一人、施設にいる理由は違う。中には家族とのトラブルが原因で入所しておられる方もいる。見た目は一緒でもそれぞれ抱えている心の悩みが違うことを知り、私は実習中一人でも多くの方の「笑顔」を見ることを目標にいつも実習に行っている。
 二年生になり最初の実習は小規模多機能型施設であった。その六日間の実習中に奇跡のような瞬間があったことを今でも時々、思い出すほど覚えている。あれは、女性利用者のK氏に初めて話しかけた時のことだ。私は折り紙が趣味な為、事前に四つ葉のクローバーを折っており、K氏に見せると「かわいい」と言って笑顔になってくれた。するとK氏は「これ折りたい」と私に向かって言った。とても嬉しかったが、折り紙を持って来ておらずK氏が次回来る際に折り紙を折ることを約束した。K氏は認知症はないが年相応の物忘れがあることを知り、私はどうすれば覚えていてくれるのかを考えた。そして、私が折った四つ葉のクローバーをK氏に渡し、思い出してもらおうと思った。これなら覚えていてくれるはず。そんな想いを抱え、日にちは過ぎていった。ある日、私は職員の方と共にK氏の自宅へ訪問介護に行った。K氏の部屋の周りには折り紙の飾りが壁に貼ってあり、K氏が折り紙好きだと知ることができた。ただ、悲しかったのは私の名前を覚えられていなかったこと。名前が覚えられていなければ、折り紙の約束も覚えていないかもしれない。そんな不安な想いのまま、実習最終日を迎えた。
 たとえ名前を覚えていなくてもいい。折り紙を折ると約束したあの日のことも。覚悟を決め、K氏の元へ行くと「折り紙は?」と言われた。私はこの瞬間、あの日の約束を覚えてくれていた嬉しさと感動で涙が止まらなかった。それからK氏と一緒に沢山笑い合いながら折り紙を折った。そして別れる前にK氏が「折り紙楽しかった。ありがとう。」と今までで一番の笑顔で言ってくれた。
 私はまた一人、本当の笑顔を見ることができた。この笑顔で毎回、やりがいを感じる。何気ない日々に、実習生が来た時だけは笑顔になってほしい。
 その想いで今日もまた、咲ききれてない笑顔の花を咲かせに行く。

奨励賞

私の介護体験

鹿児島県 東さん

 ドキドキして、電車に乗って始まった二日目の職場体験学習。私は、医療関係の体験学習だ。一日目は大きな病院だったため、二日目の介護施設の体験学習は乗り気ではなかった。
「おはようございます。」私たちが体験する介護施設は三階建ての、思ったより小さな建物だった。施設の方が笑顔で迎え入れてくれた。施設を利用している高齢者の方々は、テレビや新聞を見たり、おしゃべりをしたり和気藹々としていて、上がっていた肩も下がった。まず、施設の方は利用者の方とのおしゃべりを進めた。私は、人見知りのため、気が進まなかったが、利用者の方の話に耳を傾けた。
「私が中学生のころに、戦争が終わったのよ。その年は台風が来て、不作だったから食料難だったわ。あなたたは、恵まれているわ。何かあったら、なんでも飛びつきなさい。」
 利用者の方とのおしゃべりは、少し重たい話にはなったが相槌を打ち、話を聞くのは苦痛ではなく、むしろ楽しかった。施設の方の「次の体験に移りましょう。」の声がかかるまで時間を忘れて話を聞いていた。
 施設の三階には宿泊施設があり、施設の方は少し急いだ様子で私たちを案内した。「めったに見ることができないと思うから。」と施設でただ一人の看護師さんが言った。私はそれを見て衝撃を受けた。お腹にチューブをつないで食事を取っていたのだ。「この利用者の方は、家では夫さんが見てくれているのよ。その夫さんも、この施設を利用しているの。」「老々介護ですね。」と近くにいた施設の方が付け加えた。私は、また、さらに衝撃を受けた。介護を必要とする人が、介護をしているなんてあっていいのだろうか。しかし、介護する側の立場に立って考えると、大切な人の世話を最後までやりたいのはとてもよくわかるなと思う。また、介護される側も、最後まで大切な人のそばで、大切な人から介護されるのは、嬉しいだろうなと思う。介護は、人それぞれだ。家にいても退屈だからとか、認知症や足腰が弱くなることの予防、本格的な介護のため、家族に負担をかけないためなど様々な目的で施設を利用している。介護は、多くの人が歳を重ねるにつれて必要とするものだ。その中でも介護施設は、人生最後を飾るもの。だからこそ、介護の仕事は大切だし、やりがいのあるものだと思う。この職場体験学習を通して、医療関係という職業はもちろん、様々な人生や介護、自分の人生を考えることにも繋がった。
 「ありがとうございました。」介護施設を後に、私はまるで、しばらく家族と離れるときのようなさみしさを感じた。とても温かく、家族のような職場だなと思った。

奨励賞

じいちゃんと歩む未知の世界

神奈川県 佐藤さん

「じいちゃん!あんね、高校合格したよ!」
「おー!よかったな!」そう言って一緒に喜んでくれた。
 そんなじいちゃんは、私が小学四年生の時に認知症になった。小学四年生の私には、まだ、認知症をしっかりと理解することはできなかった。認知症とは、手術や薬で治るものだと思っていた。だけどそうではなかった。認知症というものに理解をしていない私に母は言った。「じいちゃんは、これから、いろいろなものが分からなくなるんだよ。」その言葉を聴いて、頭が真っ白になった。昨日まで元気に仕事に行ってたのに。「なんで?」とずっと思っていた。
 じいちゃんが認知症になって初めての春休みがやってきた。毎朝、じいちゃんと散歩に行った。毎回、散歩の途中でジュースを買ってくれた。「ぜんぜん、忘れてないじゃん」と思っていた。この春休みがじいちゃんが完全に覚えている最後の春休みとなった。それからは日に日に分からなくなっていた。私や母の名前ですら、ヒントをあげないと出てこなくなった。
 月日が経つにつれどんどんと進行してくようになった。だんだんと私の話しを理解しているのかが、分からなくなった。その現実がとても悲しかった。さらに、食事をしているときのじいちゃんは別人のようになっていった。今まで嫌いだった食べ物を口にしたりよだれがたくさん出ていたり。それを見て、「この食べ物嫌いだったよね?」や「汚いな」と思ってしまった。そんな中、母や祖母は何も言わず世話をしていた。「あんも手伝って」と言われた。私は、嫌だ。汚いから手伝いたくないと思った。大好きだったじいちゃんが大嫌いになりそうだった。
 機嫌が良いときのじいちゃんは、認知症になる前のように普通に会話ができる。会話をしていると、きまって、「あんの好きな物を買ってあげる。」と言ってくれる。それを聴くとこの現実が嘘なんじゃないかと思う。
 その時、私達の心の支えとなったのは、愛犬だった。一緒に生活しているだけで笑顔が増えていき家の中が明るくなっていった。アニマルセラピーはこんなにも効果があるのだと実感した。
 そして、高校が決まって、じいちゃんに報告すると一緒に喜んでくれた。新しい環境にも慣れていき高校生活を報告するといつも笑顔で聴いてくれる。笑顔を見るたび私も笑顔になる。この笑顔を見るとどうしてじいちゃんが認知症になってしまったのかと思う。だから、もっと会話をしてもっとたくさん笑顔を見たいと思った。
 今までよりもこれからのほうが大変なことが増えていくと思うから積極的に、歩行のサポートや今の私にできる介護の手伝いをしていきたいと思った。

奨励賞

僕が祖父にできること

鹿児島県 F.Yさん

 僕の両親は共働きなので、僕が帰ると、祖父母が面倒を見てくれた。僕が小学生になってからも、祖父とはよく一緒に散歩をしていた。でも僕が五年生の二月のある日、学校から帰ると、祖父が床で横になっていた。
「じいじい、どうしたの。」
 僕がびっくりして祖父に言うと、「動きたいんだけど動けないのよ。ごめんだけど、友基、じいじいの体を起こしてくれないね。」と。僕が後ろから支えて起こそうとすると、「あいたたたたた。もうしないで。」
 すごく痛がったので、母が救急車を呼んだ。祖父は、腰を圧迫骨折していた。腰の手術をして車いすには座れるようになったが、祖父が歩くことはなくなった。だんだんとねたきりのような生活になり、祖父はどんどんやせていった。痰がからむことも多くなった。食事でむせることも増えてきたので、病院の先生から、胃ろうをすすめられ、手術をした。腰の手術以来、ずっと病院や施設にいる祖父は、少しのことで怒るようになった。
 僕は、祖父は家に帰ってきたら元気な祖父に戻るんじゃないかと思い、「じいじいを家に連れて帰ってこようよ。」と何度も祖母や母に言ったが、母から「ママも連れて帰れるなら連れて帰りたいけど、胃ろうや痰の吸引のことを考えると無理だよね。家に連れて帰ってきたら、夜はママも手伝えるけど、昼間、ママは仕事だから、胃ろうのこと、痰の吸引、おむつの交換って、全部ばあばあが一人でしないといけないから大変だよ。」と言われた。
 僕は、まだ中学生なので、祖父のお見まいに行くことができない。祖母や母がお見まいに行ったときにビテオ通話で話をするが祖父は、あまり話をしなくなってきている。
 僕は昨年、「キッズ認知症サポーター養成講座」を受講した。人とのふれ合いや会話が減ると、認知症が進むと習った。普段、施設で生活している祖父は、大好きな家族とふれ合うことも話をすることもできない。そのせいか、祖父は自分から話すことが減ってしまった。それでも、体調のいいときの祖父は、以前のように冗談を言うこともある。ふざけて僕に「太基。」と兄の名前で呼ぶこともある。そんなときは、「今日のじいじいは調子がいいな。」とうれしくなる。
 今、僕が祖父にできることは何だろう。お見まいには行けないが、ビデオ通話で祖父と話をすることはできる。手紙を書くことができる。少しでも早く祖父に元気になってもらい、また家に戻ってきてほしい。車いすでもいいから、また祖父と一緒に散歩をしたい。大好きな祖父に僕ができること、僕はこれからも探していきたい。

ケアニンショートフィルム感想文の部

最優秀賞

介護の循環(Cycle of caregiving)

福井県 パトリアーカ ラレイン パレニョさん

 ケアニンショートフィルムを見て、介護の現場における喜びと苦労の両方を知ることができました。映像の中では、利用者と介護職員の関わり、家族の思い、そして新人職員の葛藤が描かれており、とても心に残りました。
 特に印象的だったのは、介護職員が本当に虐待とかあるんじゃないですかと疑われる場面です。介護の仕事は、外から見ると誤解されやすい部分が多いと感じました。しかし、実際には利用者の立場に立って寄り添い、支える姿があり、その努力は簡単には見えないものだと気づきました。
 また、新人職員がこんな仕事もう辞めたいと悩む姿もリアルでした。私ももし同じ立場なら、不安やストレスを強く感じると思います。介護の仕事は体力的にも精神的にも大変で、時にはやりがいを見失うこともあるでしょう。しかし、映像の中で職員が利用者と心を通わせたり、感謝の言葉をもらったりする場面を見ると、続けていてよかったと思える瞬間があることも分かりました。そのような経験が介護職を支える力になるのだと感じました。
 さらに、介護は利用者本人だけでなく、その家族にも深く関わる仕事であることを学びました。家族が抱える不安や葛藤に耳を傾けることも大切であり、単に身体の世話をするだけでなく、心のケアも必要なのだと思いました。介護職員は、利用者、家族、医療関係者とのつながりの中で信頼を築き、人間らしい生活を支えているのだと強く感じました。
 今回のショートフィルムを通して、介護の現場には困難も多いけれど、同時に大きなやりがいや喜びがあることを学びました。介護は人と人との関わりを大切にする仕事であり、相手の気持ちを理解しようとする姿勢が何よりも重要だと思いました。私自身も、もし将来介護の場に関わることがあれば、利用者の立場に寄り添い、小さな変化にも気づけるような人になりたいと思います。そして、介護の仕事に対して社会全体が正しい理解と尊敬を持つことが必要だと感じました。
 最後に、ケアニンの映像は単なるドラマではなく、現実に近い状況を描いているからこそ、強いメッセージが伝わってきました。私は、この作品をきっかけに介護への理解を深めることができ、今後は自分の身近な人に対しても思いやりを持って接したいと思いました。介護の仕事は簡単ではありませんが、だからこそ人の心に響く価値があるのだと感じました。この学びを心にとどめ、日常生活の中でも相手を尊重する姿勢を忘れないようにしたいと思います。
 介護は簡単ではありませんが、だからこそ人の心に響き、社会に大切な意味を持つ仕事だと強く感じました。

優秀賞

介護をするということは

熊本県 洲本さん

「ケアニンショートフィルム」を閲覧して介護のやりがいや、役割、介護するという事から学べるものが動画を通して伝わってきました。私は福祉系高校の3年生で、1年生の時から介護実習に行かせていただいていました。その中で、1年生の時は「新人介護職編」の未来さんと同じ思いで、やりたい事も見つからず、なんとなくで福祉科のある高校に入学しました。私の通っている学校では1年生と2年生では夏季と秋季と2回に分けて実習を行うのですが、夏季は夏休みに実習があり、それもありますが、初めて身内でない高齢者と一日を過ごすという経験がなく最初は「怖い」「不安」「嫌だ」とマイナスな気持ちが募るばかりでした。
 案の定、介護実習では利用者様とどのようなコミュニケーションを取ればいいのか分からなく、棒立ちしか出来ないことや、介護技術も緊張で全く上手くいかなく、実習中の控え室で積もりに積もった思いが爆発して泣いてしまうこともありました。失敗続きで、「実習に行きたくない」「こんな思いをするなんて思っていなかった」なんて思う毎日でした。
 そんなある日、1人の利用者様で『縁』の話をされた方がいました。その方は認知症でくり返し話されていたことを覚えています。内容は、「ここであなたと会えたのも、何かの『縁』ね。あなたと繋がりが出来たのが嬉しいわ。」と実習で憂鬱になっていた私に話してくれた事を思い出しました。学ぶ事も多く、やりがいもモチベーションも見つからない私と、成り行きで介護福祉士として働き「やめたい」という思いが強かった未来さんと少し重なる部分があり、利用者様を通じてやりがいを見つけられた所が共感出来ました。
 サラリーマン転職編の雅彦さんは「生活のため」「お金のため」と介護を業務化していたのを1人の利用者様と出会い、介護をすることとは「命に触れ合い、生き方を学ぶ仕事」と感じる事が出来たのが伝わってきました。「笑顔」で利用者様に喜んでいただけるような介護をされているシーンが印象的でした。
 お母さんの仕事編では、介護福祉士として働くお母さんを持つ亮太さんは、お母さんが仕事で授業参加や夜遅くに呼び出されたり、1人で泣いたりしている姿を見て何故続けるのかを問うシーンがあり、お母さんは「人はみんないつか死ぬから、それまで精いっぱい生きることが大切。そこに寄り添うのがお母さんの仕事なの。」と介護者としてとても大事な姿勢を教えてくれました。支え支えられる仕事編では、突如世界を襲い、普段の生活もままならなくなりました。その中で感染対策としてマスク、換気、リモートなどの対応を行い、いつもと変わらない生活を取り戻そうと介護士の方々が奮起される様子が短い動画なのに伝ってきました。私も介護する気持ちを忘れず、生きていこうと思える動画でした。

優秀賞

介護職のあり方

熊本県 税所さん

 介護職はきつい、つらい、汚いなどマイナスな印象を持たれがちな職業だ。ケアニンショートプログラム「あー辞めたい」の動画を見るまでは、そう思い込んでいました。
 介護職は利用者さんとの距離、信頼関係が大切な仕事でありながらも、信頼されるまでにものすごい時間がかかるものだと感じました。何度話しかけても返事が返ってこなかったり、思うようにご飯を食べてもらえなかったりします。この行動が介護者にとって一番つらいことであり、「誰の役にもたっていない」、「なんでここで働いているんだろう」「もう辞めたい」などのネガティブな考えにつながることの一つなのではないかなと思いました。ですが、利用者さんは常に介護者さんの頑張りや努力を見ているということを知りました。つらい、辞めたいと思っても、もう少し踏ん張って耐えてみると、きっといいことがあるということ。利用者さんとの信頼関係が築ける。そして利用者さんの好きなこと得意なことなど何か新しい発見ができる。この動画を見てそう感じました。
 今現在、介護職に就く人は減少しているといったニュースをよく目にします。おそらく私とおんなじように偏見を持ったまま何も知ろうとしない人が多いことが原因なのではないかなと思います。また、介護職は給料が他の職業に比べて低い傾向にあると思います。このような面にも、もっと政府が、国民が目を向け、解決していく取り組みが必要なのではないかと思いました。
 介護職はマイナスな印象だけではない。利用者さんとの距離が縮まり、信頼関係を築くことができる素敵な職業なんだ。利用者さんだけでなく、利用者さんの家族からも「ありがとう」といってもらえる職業なんだ。この動画を見てそう思い、介護職のあり方について深く考えることができました。人の命を預かり、責任ある仕事をこなす介護者さんはかっこいい、そう思いました。介護者さんの思いや、ありがたみが分かりました。介護職に就こうか迷っている人、介護職について何も知らない人にぜひ見てほしい動画です。